
R-Type Requiem of Bifröst:EP-2
EP-2:特務B執行官、誕生
朝焼けが世界を照らし始める頃、一面の荒野に仮設された医療テントの中で、アリシア・ヴァンスタインは目を覚ました。気怠い痛みが全身を襲い、夢と現実が曖昧になる。腕の火傷はまだ疼くが、昨日に比べればだいぶ楽になったようだ。
「あ……」
上体を起こそうとして、アリシアは一瞬バランスを崩した。傷口を刺激し、ヒリリと鈍い痛みが走る。けれども痛みに慣れる余裕すらないほど、頭の中は昨夜の戦闘の記憶が渦巻いていた。
“怪物”との激しい交戦。そして、自分が初めて人を殺傷しうる兵器――Rシリーズの「スラッシュゼロ」を手に取ったこと。最初は本当に倒せるのか半信半疑だったが、結果的に怪物を撃退することに成功した。
外からは人々の慌ただしい声が聞こえてくる。特務B班のメンバーが、早朝から撤収の準備や後処理に追われているのだろう。医療テントの薄い布越しに、朝の光がぼんやりと差し込む。その淡い明かりに照らされて、自分の姿を確認すると、相変わらず制服姿のままだということに気づく。黒のブレザーはところどころ砂や汚れで茶色く染まり、スカートには裂け目が入りかけていた。
「まるで戦地を歩いた難民みたい……」
アリシアは苦笑を漏らし、そっと膝を立ててみる。身体が鈍重なのは、痛み止めの薬と心身の疲労が相まっているせいだろう。テントの端に置かれていた水筒を手に取り、一口飲む。まだ喉がカラカラだが、飲みすぎると胃が受け付けないかもしれない。昨日からまともに食べていないことを思い出し、なんとか外へ出ようと立ち上がった。
「よいしょ……っと」
痛む腕をかばいながらテントの布を捲り、外の光を直視する。すると、先ほどよりもはっきりとした喧騒が耳に飛び込んできた。
「そっちはもう積み終わったか?」 「はい! 医療機材は全部トラックに載せました!」
テントの並ぶエリアの中央付近では、褐色の肌を持つ女性――班長がチェックリストを手に指示を出しているのが見える。背筋をピンと伸ばし、声に力があり、何より強い意志を感じさせる目つきだ。彼女こそ、特務B班を率いる指揮官であり、通称“マム”と呼ばれる存在。アリシアが正面から見るのは、これで二度目かもしれない。
周囲では、負傷兵の搬送や物資の整理が急ピッチで行われている。遠巻きに政府軍の兵士らしき人たちも見受けられ、特務B班のスタッフに敬意を示すように作業を手伝っていた。昨日までは「一体何者なんだ?」という疑念の目を向けていたが、今はその力を認めざるを得ないのだろう。何しろ、政府軍が長期間苦戦していた怪物を、特務B班のサポートとアリシアが協力する形で倒せたのだから。
「おはよう、アリシア。もう起きて大丈夫か?」
背後から低い男性の声がした。振り返ると、副長の如月がこちらを見つめている。36歳の日本人男性で、元は科捜研の捜査官と聞いている。実戦部隊というよりは分析官という雰囲気だが、昨日の通信越しでも落ち着いた指示が頼もしかった。
「あ、如月さん……おはようございます。私、もう少し寝てても良かったんでしょうか?」
「いや、起きられるなら大丈夫だ。ただ、傷が痛むなら無理はしないでくれ。今、片付けの真っ最中でね。俺たちは拠点を引き払って、別の場所に移動する予定だ」
「……そうなんですか。怪物を倒したのに、拠点を移動するんですか?」
アリシアは意外に思って尋ねる。昨日ここで戦った怪物は倒れたとはいえ、周囲の安全確認や余波の処理がまだ残っていそうだ。
「うん。俺たちはあくまで“特務”だからな。基本的に一ヶ所に長居はしない。政府軍や自治体に引き継いで、次の不穏な場所に移る。今回は大規模な被害が出たから、細かい調査は別のチームが来るはずだ」
「調査チーム……」
「バイド係数の調査や、怪物化の実態を探るための研究者たちだよ。俺も彼らにデータは渡しておくが、何せ分からないことだらけだ。各国の情報が混沌としているからな」
如月は溜息まじりに言葉を切る。アリシアにはまだピンとこないが、バイド係数や怪物化といった専門用語は、今日これからじっくり学ばねばならないのだろう。
「ところで、アリシア。班長がお前と話をしたがってる。少し落ち着いたらでいいが、時間があれば彼女のところに行ってやってくれ」
「え……わ、わかりました。何か……まずいことでも?」
「いや、心配しなくていい。お前さんの“これから”の話だよ。昨日はあの状況だったからな、ちゃんと説明する暇がなかったわけだ」
如月はそう言って微笑むと、慌ただしく書類を抱えて反対方向へ歩き出す。さまざまな計器類やノートパソコンを小脇に抱えており、どこか研究者然としている。彼が副長ということは、それだけ情報分析と指揮に長けているのだろう。
(“これから”……か)
アリシアはその言葉がやけに心に引っかかった。この特務B班という部隊に正式に加わるのか、それとも――。考えても答えは出ない。とりあえず班長のところへ行ってみよう、と意を決して足を進める。
班長は積み荷の確認を終えたのか、ちょうど車両のそばで通信端末に向かって話し込んでいた。アリシアが近づくと、彼女は手で合図をして「ちょっと待ってて」と促す。しばらくすると、通信を切って深い息をついた。
「おはよう、アリシア。具合はどう?」
「おはようございます。だいぶ楽になりました。ありがとうございます」
「そう。よかったわ。昨晩の戦いは相当きつかったでしょう? あなた、まだ17歳なのに、あんな化け物と……」
心配そうに眉を寄せる班長だが、その眼差しには「よくやった」という讃辞も混じっている。アリシアは少し気恥ずかしい気持ちと、背筋が伸びるような思いを同時に感じる。
「それで、用件とは……?」
「ええ。あなたも気になっているでしょうし、まずは軍や研究所サイドからの“正式な申し出”という形でお話するわ」
班長は車両の荷台に腰掛けて、アリシアにも座るよう促す。アリシアが遠慮がちに腰を下ろすと、班長は視線を落として口を開く。
「結論から言うとね、アリシア――あなたを“特務B執行官”に任命したいと、軍や政府が言ってきているの」
「……特務B執行官、ですか?」
「そう。昨日まであなたは単なる“研究対象”に近い扱いだった。Rシリーズ兵装を起動できる希少な個体……というね。でも、実際に使いこなせるかは分からなかったし、どの程度の戦闘力があるのかも未知数だった。だから彼らも慎重だったの」
アリシアは思い起こす。あの研究施設でスラッシュゼロに触れた後、自分が軍や政府に拘束されずに済んだのは、この特務B班が“まずは安全に試験してみよう”と間に入ってくれたからだと聞いている。
「だけど、あなたは見事に怪物を倒した。政府軍が長期間苦戦していた相手をね。もちろん、私たち特務B班のサポートがあってこそとはいえ、あれは紛れもない実績よ。だから今、軍や政府はあなたを“正規の戦力”として組み込みたいの」
「でも……私はまだ高校生で、軍人ではないですよね……」
「ええ、だから“特務B執行官”という枠組みなの。軍属でも民間人でもない、いわゆる外部委託のような立ち位置。特務B班は国連や各国政府からの出資を受けているけど、軍隊ではない。研究・捜査・対怪物戦闘の総合機関よ。だからこそ、あなたを一時的に雇用する形で“執行官”にできる。ちなみに正式には“特務B執行官――Rシリーズ適合者”という肩書になると思うわ」
アリシアは複雑そうにうつむく。自分が戦わなければ、また怪物が暴れ、人々が犠牲になるかもしれない。そう分かってはいるが、一方で17歳という年齢で戦闘要員になっていいのだろうかという抵抗感は拭えない。
「他の人じゃダメなんですか? 私より優れた大人とか、いろいろ……」
そう呟くと、班長は小さく首を振った。
「残念だけど、あなたみたいにバイド係数が極端に低くて、なおかつR兵装の起動に適合する人材は、まず見つからない。私たちも必死で探しているけど、今のところゼロよ」
「そもそも、バイド係数ってなんなんでしょう……?」
アリシアの素朴な疑問に、班長は「そうだよね、まだちゃんと教えてなかったわね」と苦笑する。
「簡単に言えば、人体に含まれる“バイド遺伝子”の割合を示す数値のこと。知っての通り、この世界の大半の人類はバイドとの混血なの。だけど、その比率には個人差がある。高いほど身体能力や精神感応力が優れている傾向があるけど、その分“怪物化”のリスクも高い。そしてある一定の値を下回る人は、逆に普通の人間に近くなる」
「私は、それが極端に低いんですか……」
「そう。あなたは遺伝子的にはほとんど“旧人類”に近い。それが幸いして、Rシリーズの制限を突破できるわけ。Rシリーズは旧時代の技術だから、バイドの混血個体には拒絶反応を示す。だから、あなた以外では、まともに起動できないの」
なるほど、とアリシアは思う。自分が戦場に出たくないと思っても、他に代わりがいないのなら仕方がない。だが、同時に重い運命を背負わされたような気分だ。
「私、まだ気持ちの整理がつかないです。戦うのは怖い。でも、昨日みたいに私が行かないと、誰かが死んでしまうかもしれないって考えると……」
アリシアの声がかすれる。班長は優しく肩に手を置き、
「大丈夫。それが普通の反応よ。“戦いたくないけど、戦わなきゃ”って思えるのは、立派なこと。私たち特務B班は、あなたが少しでも安全に戦えて、必要以上に苦しまないようサポートする。あなたはもう立派な“仲間”だから」
「仲間……か」
アリシアはその言葉にほっとしたような、しかし決意を促されるような不思議な感情を抱く。仲間がいるなら、怖くても頑張れるかもしれない。そう思うと、少しだけ気持ちが楽になるのを感じた。
「さて、それで……一応、軍と政府が準備した“特務B執行官”の任命書や規約があるんだけど、あなたにも確認してほしいの。もう少し落ち着いたら見せるわね。今日はその前に、特務B班のメンバーも紹介するし、あなた自身も見て回るといいわ」
「はい、よろしくお願いします」
アリシアは静かに首を縦に振った。
荷台から降りたアリシアは、班長とともに仮設拠点の周囲を歩き始める。各所でスタッフが忙しそうに動いているが、班長に促されると皆が一瞬手を止めて挨拶してくれる。その視線には好奇の入り混じった尊敬や、何とも言えない遠慮が感じられた。
「……なんだか、恥ずかしいですね」
「仕方ないわ。昨日、あなたが怪物を倒したのは衝撃的だったもの」
苦笑するアリシアを横目に、班長はまず一人の男性のもとへ向かう。彼は車両のエンジン部分を開けて、何やら点検をしている様子だ。陽気な口笛を吹きながら、手慣れた動作で工具を操っている。
「ごめんね、今いい?」
班長が声をかけると、男性は振り返ってにっと笑う。いかにもイタリア系らしい、明るく人なつこい笑顔だった。オールバックに固めた茶色の髪、浅黒い肌。腕には筋肉が浮き出ているが、顔立ちは彫りが深く、美形という印象もある。
「おお、班長! 早かったね。もう移動の準備かい?」
「ええ、大体のめどが立ったわ。ところで、彼女――アリシアを正式に紹介しておくわね。あなたのメンテナンスを受ける可能性が一番高いから」
班長がアリシアを示すと、彼は汚れた手袋を外し、まるで紳士のように軽く会釈する。
「はじめまして、アリシア。俺はこの特務B班で“メカニック”を担当している。名前は……そうだな、まだ名乗ってなかったよな。呼びにくかったら“メカニックのお兄さん”でもいいぞ?」
そう言って、自分の名前を名乗ろうとするが、アリシアは先に口を開いてしまう。
「あ、えっと……私、まだメカニックさんのお名前をちゃんと……」
「ははっ、ごめんごめん。俺の名前は“ダニエーレ・ロッシ”だ。イタリア人さ。気軽にダニーって呼んでくれたらいい」
ダニエーレ――ダニーは陽気な調子で言ってから、スパナを軽く振りながら続ける。
「Rシリーズやフォースのメンテは俺の担当になるけど、主にスラッシュゼロを使うのは君だからね。いつでも修理やカスタマイズの希望があれば言ってくれ。武器は女と同じで、愛情を注ぐほど応えてくれる、ってのが俺の持論なんだ」
愛情を注ぐ――その言葉にアリシアは少し照れるが、思い返せば昨日もダニーがスラッシュゼロを持って走り寄ってくれたおかげで、彼女は戦う準備ができたのだった。
「ありがとうございます。昨日も、本当に助かりました。あのとき、整備しておいてくれたから……」
「へへっ、俺は何もしてないさ。使いこなした君がすごいんだよ。けど、今後はもっと性能を引き出すために改造とかもできるかもしれない。そういうの、興味あるか?」
「改造ですか? でも、Rシリーズって旧時代の遺産だから、むやみに触らない方がいいんじゃないかと……」
アリシアが不安そうに言うと、ダニーはわざとらしく胸を張る。
「そりゃあ、素人が触れば壊すリスクもあるだろうさ。でも俺は腕には自信があるんだ。そう簡単にぶっ壊しやしない。何か新しいアイデアが浮かんだら、いつでも相談してくれ」
頼もしい宣言に、アリシアはほっと笑みをこぼす。班長も微笑ましく頷き、
「この人、口は軽そうに見えるけど、仕事は本物だから安心して。じゃあダニー、後で車両の状態もチェックしておいて」
「了解、マム!」
ダニーは再びエンジンルームへ戻り、鼻歌まじりで工具をいじり始めた。班長は“マム”と呼ばれても特に訂正しないあたり、そう呼ばれるのに慣れているらしい。
「じゃあ次は……医療担当のところへ行きましょうか」
そう言って班長が歩き出す。アリシアも後をついていく。すると、遠目にもわかるほど整然とした医療テントが見えてきた。テントの外では数名の人々が怪我の手当てを受けたり、点滴を打たれていたりして、あまり楽しげな雰囲気ではない。
そこに控えているのが、クールな表情のフランス系女性。クリアな印象の金髪を後ろでまとめ、白衣代わりの医療用ジャケットを着ている。そばには数台の医療機器や薬品が整理され、彼女の几帳面さを物語っていた。
「ねえ、彼女の様子はどう?」
班長が声をかけると、その女性はチラリとアリシアを見た後、小さくうなずく。
「腕の火傷は大したことない。あと3日もすれば治るでしょう。あとは……少し精神的なケアが必要かもしれない。初陣のショックは侮れないわ」
アリシアは思わず苦笑する。確かにショックは大きかったが、今はこうして立っているので、そこまで深刻には感じていない。しかし、医師としては見逃せない事態なのだろう。
「すみません、いろいろご迷惑をおかけして……。あの、まだお名前を伺っていませんでした」
すると彼女は少し考えるように視線を外し、それからアリシアを真っ直ぐ見つめ返した。
「私の名前、必要かしら?」
「え……?」
一瞬、アリシアは返答に困るが、すぐに「でも、呼び方がわからないと……」と口を開く。
「ふふ、冗談よ。そんな深い意味はないわ。ただ、私は特務B班の医療担当。それだけ覚えていれば問題ない。でも……そうね、名乗らないのは不便だから言っておくわ」
軽く咳払いをしてから、彼女は自分の名を告げる。
「……わかりにくい名前かもしれないから、フランス風に呼びにくかったら“ドクター・L”とでも呼んで。詳しい本名は長いのよ」
どうやら、あまり自分のプライベートを明かしたがらない性格のようだ。班長も苦笑してフォローを入れる。
「彼女は不愛想に見えるけど、腕は確かだし、優しいから安心して。実際、B班のメンバーで彼女の治療に不満を持った人はいないわ」
「そ、そうなんですね。あの……昨日も助けてくださって、ありがとうございました」
アリシアが頭を下げると、“ドクター・L”は少し表情を和らげて首を振った。
「当然のことをしたまで。あなたが死ねば、R兵装を扱える適合者も消える。それは世界にとって大きな損失だから」
「あ……」
まるで医師というより合理的な科学者のような発言だが、その冷徹さの裏にどこか人間味を感じさせる。アリシアはその奥にある“心配”を察して、少しだけ胸が温かくなった。
「とにかく、病気や怪我は我慢せず、すぐに言いなさい。今はチームとして動いているのだから、あなたが倒れるとみんなが困るわ」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
“ドクター・L”は短く言い残し、再び血圧計を調整し始める。班長はアリシアの肩に軽く手を置き、
「行きましょうか。まだ紹介していない人がいるわ。あとでまたじっくり話せばいい」
アリシアは小さく息をついて、班長の後に続いた。ドクター・Lの冷たい態度にも、彼女なりの優しさがあるのだと感じられる。こういう個性的な人たちの集合体――それが特務B班なのだろうか。
次に訪れたのは、少し離れたところに設置された装甲車の側。そこには如月がパソコンやタブレット端末を並べ、画面を睨みつけていた。昨日の戦闘データや怪物の遺留物を解析しているのだろう。隣にはスーツ姿の男が背を向けるように立ち、スマートフォンで通話している。
「あ、班長か。ちょうど今、怪物のデータを取りまとめているところだ」
如月は班長に気づき、キーボードを叩く手を止める。アリシアに気づくと、少し微笑んで短く会釈した。
「どう、何か新しい発見はあった?」
「そうだな……怪物のバイド係数はかなり高かった。おそらく人間の姿から変異して、鱗や棘を獲得したパターンだろう。DNAの検査ができれば、誰だったのか判明するかもしれないが……」
如月は苦々しそうに顔をしかめる。怪物の死骸がもとは普通の人間だったのかと思うと、アリシアの胸も痛んだ。
「やっぱり“怪物化”なんですか……人が、あんなふうに変身しちゃうなんて……」
アリシアの言葉に、如月は真剣な表情でうなずく。
「そうだ。バイド遺伝子の影響を強く受けた個体ほど、何らかのきっかけで“怪物化”する可能性がある。強いストレスや環境要因など、要因は複数あると考えられているが、詳しいことはまだ解明されていない。まあ、そこを解き明かすのが俺の仕事でもあるが」
「怪物化した人は、本当に元の姿に戻れないんですか?」
無垢な疑問に、如月は切なそうに目を伏せる。そこにあるのは、確信と同時に諦観にも近い感情だ。
「今のところ、戻ったという実例はない。人格や理性が維持されている個体もいるけど、外見は完全に変異する。彼らが敵意を持って攻撃してくる限り、俺たちは対処しなければならない。ただ、それでも話し合いで解決できるケースも稀にある。難しい問題だ」
アリシアは言葉を失った。つまり、昨日の怪物も、もしかしたら話し合えたかもしれない可能性はゼロではない――だが、実際には多くの死傷者を出してしまった。あの戦闘は本当に必要だったのだろうか。そう考えると胸が痛む。
(でも……あれだけ人を殺しておいて、話し合いなんてできるの?)
その思いは口に出さなかったが、如月は察したのか声のトーンを落とす。
「罪悪感を持つのは当然さ。しかし、現実的には救えない命もある。それが戦場だ。俺たち特務B班が何を目指すかは、これから君にも見てもらうさ」
まるで励ますように言いながら、如月は溜息まじりに視線を横へ向ける。すると、そこにいたスーツ姿の男がスマートフォンの通話を切り、こちらに向き直った。
「ああ、終わりました。……彼女が噂の“Rシリーズ適合者”ですか?」
背が高く、スタイリッシュなグレーのスーツを着こなし、金縁の眼鏡をかけたドイツ系の男性だろうか。彫りの深い顔立ちで、どこかビジネスマン然とした冷静な雰囲気を漂わせている。
「あなたがアリシア・ヴァンスタインさんですね。私は“特務B班のコンサルタント”を担当しています。各国政府や企業との交渉を請け負っており、必要な資金や物資を確保するのが私の主な役目です」
「こ、こんにちは……えっと、お名前は……」
アリシアが恐る恐る尋ねると、彼は肩をすくめるようにして微笑む。
「そうですね、名前は……“クラウス・ヴァルナー”とでも覚えておいていただければ結構です。社交辞令が多い仕事柄、本名を出したくない場合もあるので」
どこか如月やドクター・Lと似たタイプの雰囲気を感じる。特務B班には自分のプライベートをあまり明かさない人が多いのだろうか。ともあれ、アリシアは恐る恐る頭を下げる。
「よろしくお願いします。私は……まだ現状がよくわかってないんですけど……」
「ええ、話は伺っています。あなたがRシリーズを扱える唯一の存在だと。実に興味深いですね。私が動けば、莫大な投資や研究費を呼び込むことも可能でしょう。あなたは特務B班にとって“切り札”になり得る。私としては大いに歓迎しますよ」
クラウスはビジネスライクな口調で続ける。まるでアリシアという存在が一つの資産であるかのような言い方だが、彼に悪気はないのかもしれない。
「実際、あなたが行動するための装備やサポート体制、研究費などを確保するのは私の役目でして。あなたが戦いやすいように、私がどこまで予算を引っ張れるか、それが鍵となります。軍や国連の上層部も、あなたの成果を見れば資金を惜しまないでしょうからね」
アリシアはその言葉に一抹の不安を覚える。予算、資金、運営――そういったビジネス的なやり取りの中で、自分という存在がどう扱われるのか想像がつかない。だが、クラウスの言う通り、スラッシュゼロや特務B班の装備を拡充するには資金が不可欠なのは確かだ。
「まあ、難しく考えなくていい。私はあくまで“環境”を整える側です。あなたが安心して戦える場を作る。ただ、無駄遣いはしないでくださいね?」
クラウスは薄く笑い、スマートフォンを再度取り出す。次の交渉があるのだろう。
「それでは、私はこれで。引き続き財務の確認をするので、もし欲しい装備や研究資料があれば早めにリストアップしてください」
そう言い残し、クラウスは再び電話の相手を探すようにその場を離れていった。アリシアは如月の方を見ると、彼は肩をすくめて苦笑する。
「あれでも優秀なんだ。彼がいなければ、俺たち特務B班は資金繰りに困って解散してるかもしれない。気に障るところはあるかもしれないが、頼もしい男さ」
「そうなんですね……なんだか、いろんな人がいて驚きました」
「はは、そうだろうな。まあ、これが特務B班だ。いわば寄せ集め部隊さ。だが、その寄せ集めこそが我々の強みでもある」
如月はそう言って、アリシアにパソコンの画面を見せようとする。しかし、すぐに班長が声をかけてきた。
「如月、そろそろ移動を開始するわよ。続きは移動しながらでも頼めるかしら?」
「ああ、わかった。じゃあアリシア、また後でな」
如月は名残惜しそうにパソコンを閉じ、別のスタッフと一緒に装甲車へ乗り込んでいく。アリシアも同じく移動になると聞いて、少し緊張した面持ちになる。次はどこへ行くのか、何をさせられるのか――まだ分からないことだらけだ。
特務B班の車両は、数十分後には荒野の仮設拠点を撤収し、長い車列を組んで移動を開始した。総勢20名ほどのスタッフを乗せた装甲車やトラックが数台連なり、班長や如月、そしてアリシアが座る指揮車が先頭を走る。
「さて……次の目的地は“コルドナ渓谷”。この先、数時間は移動が続くわ」
班長は車内のモニターを見ながらそう告げる。どうやらそこには、昨日と同じ種の怪物が出現しているとの報告があるらしい。政府軍はすでに出動しているが、苦戦しているとのこと。
「昨日倒した怪物と同じ……って、そんな短期間にもう?」
「そう、あれだけの強さを持った怪物が、他にもいるということ。私たちが目撃したのは、氷山の一角かもしれないわ」
アリシアは思わず息をのむ。つまり、初陣はもう終わったわけではなく、次の戦闘がすぐにも始まるかもしれないということだ。
「ねえ、班長……私、本当に戦わないといけないんですよね……?」
覚悟はしていたが、実際に次の戦闘を想像すると手が震えてしまう。班長は優しく微笑み、
「ええ、無理強いはしない。ただ、私たちが行く先には、必ず怪物がいて、苦しんでいる人々がいる。あなたが戦ってくれれば助かる命があるのも事実。決して一人で戦わせたりはしないから。私たちも全力で援護するわ」
その言葉に、アリシアは黙ってうなずく。今はまだ怖いし、自分の力がどこまで通用するかもわからない。しかし、特務B班の面々を見ていると、不思議と心強さを感じるのだ。彼らなら、自分を見捨てないでいてくれる――そう思わせるだけの信頼感がある。
やがて車列がコルドナ渓谷に近づくと、無線機から軍の焦りを帯びた声が飛び込んでくる。
「こちらコルドナ渓谷前線! 特務B班は応答せよ! 怪物の群れが複数箇所から侵入してきている! 我々だけでは対処不能だ!」
「こちら特務B班、班長が応答するわ。位置情報を送信して」
「座標を送ります! 至急増援を!」
画面には複数の赤い点が表示され、それぞれが集落や交通の要所を襲っていることが示される。どうやら1体ではなく、3体、4体と同時に出現しているようだ。班長は冷静に指揮車の端末を操作し、部隊に指示を出す。
「前衛の装甲車は渓谷西側から回り込み、B-03は集落の避難誘導を担当。アリシアを乗せた指揮車は渓谷中央へ向かう。ダニー、スラッシュゼロの準備は?」
通信機からダニーの明るい声が返る。
「バッチリだ! 波動エネルギーのチャージも問題なし。どこでも出撃できるぞ!」
「オーケー。では行くわよ、アリシア。覚悟はいい?」
「は、はい……やります!」
アリシアはシートベルトを確かめ、胸をドキドキさせながら返事をする。再び怪物との激突が始まろうとしているのだ――。不安は大きいが、やらなければならない。ここで逃げるわけにはいかない。
渓谷近くになると、荒野とは打って変わって岩肌がむき出しの地形が目立つ。崖や断崖絶壁が連なり、細い山道が蛇行している。遠くには乾いた川床が見え、ところどころにわずかな水溜まりが散在している。緑はほとんどなく、茶や灰色の地帯が広がっている光景が目に飛び込んでくる。
車列が停止し、特務B班のメンバーが一斉に下車。班長の指示で、スタンバレットや電磁妨害装置などを展開する。アリシアはダニーからスラッシュゼロを受け取り、軽く刀身を確認する。
「本当に……こんな場所で、また戦うんだ……」
昨日と同じような感覚が蘇る。しかし、時間は待ってくれない。ほどなくして、赤茶けた岩陰の向こうから、低く唸るような咆哮が響いてきた。
「……来るわ。みんな、配置に着いて!」
班長の指示により、特務B班のスタッフがそれぞれの役割で散開する。アリシアは一番前に立たされる形になり、自然と唾を飲み込んだ。正直、怖い。だけど、後ろを振り返れば、仲間たちがいる。自分が踏ん張らなくてどうする――そう自問し、剣を構える。
間もなく、岩の割れ目から巨大な“何か”が姿を現す。今度の怪物は、上半身が異様に筋肉質で、両腕が長い。背中には棘ではなく、コブのような隆起がいくつもあり、その中から赤黒い液体が脈打っているのが見えた。人間の顔の名残がわずかにあるが、目はまるで爬虫類のように細長く、理性があるようには見えない。
「う、うわぁ……また……こんなのが……」
アリシアの呟きに呼応するかのように、怪物が低い怒声を放つ。粘液を含んだ唾液が地面に落ち、煙を上げて焼き付く。厄介な酸性液の可能性が高いと推測できる。
「アリシア、また正面から行くのは危険だ。まずは俺たちが電磁妨害で動きを封じる。合図をしたら、斬り込め!」
遠方から如月の声が通信機に入る。アリシアは深呼吸し、すぐに応じる。
「はい……お願いします!」
電磁妨害装置が起動し、ピリピリとした空気の振動が走る。怪物はそれに苛立ったように背中のコブを膨らませ、破裂しそうな勢いで唸り始めた。すると、ブシュッと嫌な音がして、そこから赤黒い液体が飛散する。
「ひっ……!」
アリシアは思わず身を引く。液体は地面に落ち、ジューッという音とともに小さな煙を上げる。酸性の毒液なのは明らかだ。もし身体に浴びれば、ただでは済まないだろう。
「大丈夫、落ち着いて。電磁波でやつの外殻を撹乱しているうちに、弱点を探って!」
班長がさらに指示を飛ばす。アリシアはスラッシュゼロを握り直し、怪物の動きを注視。脳裏に昨日の戦闘がフラッシュバックするが、今度は一度勝利した経験がある分、少しだけ冷静になれる。
(昨日は、胴体への一撃で倒せた。でも今日はどうだろう。あのコブが怪しそう……)
怪物が、さらにコブから粘液を噴出させようとしているのを見て、アリシアは素早く前へ飛び出した。もしあれが大量に噴き出したら、周囲の仲間も危険に晒される。
「いっけぇぇぇっ!」
スラッシュゼロの刀身に波動エネルギーを乗せ、横薙ぎに斬りかかる。怪物の腕が反応し、カウンターの形で振り下ろされるが、電磁妨害が効いているのか動きがわずかに鈍い。アリシアは紙一重で回避し、そのまま胴体を斬りつけた。
ズシュッ――と肉を裂く生々しい感触が手に伝わり、怪物の体液が飛び散る。アリシアの頬にも数滴が飛んでくるが、どうにか耐えられそうな濃度だ。
「効いてる……!」
だが、怪物は怯むどころか怒りを増している。負傷した箇所が赤黒く膨れ上がり、まるで再生しようとしているかのようにドクドクと脈動している。
「そっちも自動再生の能力があるのか。厄介だわね……!」
班長が苦々しく唸る。怪物は再び背中のコブを振りかざし、今度は狙いを定めるようにアリシアへ向けて粘液を噴出させた。高圧洗浄機のように噴き出すそれは、真っ赤な液体の弾幕を形成し、逃げ場を奪う。
「アリシア、下がって!」
遠くからダニーの声が聞こえるが、この状態で後退すれば怪物がさらに暴れ出すだろう。アリシアは迷いつつも、斬り込むか退避するかで一瞬逡巡する。背筋を伝う冷や汗。だが、その瞬間、別の方向から援護射撃が飛んできた。
パキューン、と乾いた銃声。特務B班が使用する特殊弾丸が怪物の背中に命中し、粘液の噴出をわずかに逸らす。アリシアはその隙に横へ飛び退き、地面を転がるように回避する。
「助かった……!」
怪物が反撃に気を取られた隙を突いて、アリシアは再びスラッシュゼロを構え直す。どうやら背中のコブを攻撃するのが有効そうだ。そこが再生や粘液の根源であるなら、破壊すれば動きを封じられるだろう。
「狙うなら……あそこ!」
強く心の中で思い描き、剣に波動エネルギーを集中させる。すると、昨日よりも少しだけ早くエネルギーが高まる感触がある。スラッシュゼロと自分がリンクしている証拠だ。アリシアは踏み込み、跳躍し、怪物の背中上部を目指して剣を振り下ろす。
「――ッ、はぁあぁっ!!」
刀身がコブに触れた瞬間、凄まじい熱と粘液の飛沫が四散する。爆発にも近い衝撃が生まれ、アリシアは吹き飛ばされかけるが、なんとか踏みとどまる。怪物は断末魔のような咆哮を上げ、身体を大きくのけ反らせる。
「効いた……!」
背中のコブが砕けて血のような液体が噴出し、怪物は力を失ったのか、その場で崩れ落ち始める。再生どころか、組織が崩壊を始めたようだ。アリシアはただ立ち尽くし、猛烈な心拍数を落ち着かせようと必死だった。
「アリシア! 大丈夫!?」
班長が駆け寄ってきて、彼女の身体を支える。アリシアは息を切らしながら頷き、
「は、はい……なんとか……今度は、少し……早く動けました……」
「ええ、あなたは確実に成長してる。すごいわ」
班長は微笑みかけ、アリシアの背を軽く叩く。怪物は完全に活動を停止したようで、やがて肉塊のように地面へと沈んでいった。
「しかし、油断は禁物よ。他にも怪物がいるはずだわ。すぐに次の地点へ向かうわよ」
「はい……!」
アリシアは立ち上がり、痛む膝をかばいながらも走り出す。怪物を倒してホッとする暇などない。コルドナ渓谷には複数の怪物がいるのだから――。
それから数十分、アリシアと特務B班は渓谷内の複数ポイントを駆け回り、怪物化した個体の対応に追われた。いずれも背中や腕に変異の兆候があり、粘液や棘による攻撃方法は異なるが、共通してバイド係数の高い人間の成れの果てだと推測できた。
「くそっ……何体いるんだ、ここには!」
「昨日の奴らよりは数は多いが、個体の能力はやや低い。それでも、こんなに群れていると厄介だな……」
如月の分析が追いつかないほどに、次から次へと襲い来る怪物たち。幸い、今回の怪物たちは再生力こそあるが、昨日の“背中の棘を飛ばす怪物”ほどの圧倒的攻撃力は持たないようだった。それでも通常兵器ではダメージを与えられず、特務B班の電磁妨害やスタンバレットが不可欠となる。
アリシアはスラッシュゼロを駆使し、胴体やコブを狙って攻撃を繰り返す。隙あらば怪物が吐き出す粘液や棘に苦しめられ、一歩間違えれば重傷につながる局面もあったが、班長やダニー、そして遠距離から如月の指示が絶妙にカバーしてくれているおかげで、なんとか大きな被害には至らない。
しかし、戦闘が長引くにつれ、アリシアの体力は確実に削られていった。汗が目に染み、腕の火傷がぶり返すように疼く。呼吸も乱れ、脳が酸素を欲しているのがわかる。それでも踏ん張るしかない。
「あともう少し……あと少しで、全部……!」
渓谷の奥へ追い詰められた最後の怪物が、壁際に立ち尽くして唸り声を上げる。アリシアはヨロヨロと剣を構え直し、半ば意地のように斬りかかる。怪物は咆哮とともに腕を振り下ろすが、電磁妨害がかなり効いているのか動きは鈍い。
「やあぁぁっ!」
スラッシュゼロが怪物の胸部を貫き、波動エネルギーが一瞬輝く。怪物は苦しそうに嘶き、やがてそのまま倒れ込んだ。アリシアは勝利を確信し、その場にへたり込む。全身が痛い。肺が焼けるように熱い。それでも、やり遂げたという安堵感で涙が出そうになる。
「アリシア、よく頑張った!」
班長が駆け寄り、無線機で残りの怪物の掃討状況を確認する。どうやら他のチームも怪物を排除し終えたようだ。
「これで、渓谷はほぼ制圧完了。あとは負傷者の回収と確保ね。……あなた、本当にご苦労さま」
「はぁ、はぁ……いえ、私一人じゃ無理でした……。みんながサポートしてくれたから……」
アリシアは返事をしながら、ふと怪物が倒れた場所を見る。かつては人間だったかもしれない身体を、手にした剣で直接断ち切ったという事実。罪悪感と安堵が交錯し、複雑な気持ちに苛まれる。そんな彼女の心境を察したのか、班長はそっと肩を抱くようにして声をかける。
「あなたが悪いわけじゃない。むしろ、多くの命を救ったの。誇っていいわ」
アリシアはこらえきれず、ぽろっと涙を零す。戦いの adrenaline が切れたことで、一気に感情が高ぶっているのだろう。班長は何も言わず、しばらく抱きしめるように背中をさすってくれた。
その日の夕刻、戦闘を終えた特務B班は、渓谷近くの比較的安全な場所に仮設拠点を再設営した。軍の生存者や住民たちも避難しており、まだ混乱は残っているが、怪物の脅威は一時的に去ったといえる状況だ。
アリシアは簡易ベッドに横になり、ドクター・Lの手当てを受けている。足の打撲と腕の火傷が悪化しないように念入りに処置され、痛み止めを打たれてもまだ少し熱がある。そんな彼女のそばに、班長が書類を携えてやってきた。
「ごめんね、また怪我させちゃって」
「いえ……私が下手だから……」
「そんなことないわ。あなたがいなければ、もっと多くの人が死んでいた。だから、改めて言わせて。ありがとう、アリシア」
班長の言葉に、アリシアはかすかに微笑む。昨日に引き続き、またも怪物を倒すことができた。だが、そのたびに自分が少しずつ壊れていくような気もする。これが戦うということなのだとしたら、あとどれくらい自分は平気でいられるのか。
「それで……これが“特務B執行官”としての任命書と契約書よ。あなたにサインしてもらう必要があるの」
そう言って班長が差し出す書類には、小難しい条文が並ぶ。国連や政府から権限委譲を受ける代わりに、一定の義務を負うことになる――というような内容らしい。アリシアは文字を追いながら、小さく息をつく。
「これを……サインしたら、私は正式に特務B執行官……」
「ええ。あなたは今日の戦いを経て、十分に適正があると証明した。私たちとしてはぜひ受けてほしいと思っている。でも、最終的に決めるのはあなたよ。拒否するなら、それを尊重する。無理に戦わせるつもりはない」
アリシアは迷った。戦いの恐ろしさは十分味わったし、これ以上人を殺してしまうかもしれない罪悪感から逃れたい気持ちもある。けれども、もしここで戦うのを放棄すれば、次に出現する怪物を誰が止められるのか。バイド係数の高い兵士が挑めば、返り討ちに遭うか、あるいは怪物化のリスクが上がる。昨日、今日と多くの犠牲を見てきたばかりだ。
――そのシーンが頭をよぎる。傷つき、絶望する人々。自分が戦わなかったら、もっと多くの命が散っていたかもしれない。特務B班がいなければ、被害はさらに拡大していたに違いない。自分以外にRシリーズを扱える者はいないのだから――。
やがて、アリシアは小さく笑みを浮かべる。決意というよりは諦観にも近い表情かもしれない。それでも、どこか清々しさを感じる笑みだった。
「私……引き受けます。たとえ怖くても、この力を放棄するのは卑怯だって思うから……」
班長は深く頷き、書類を見やすいように膝上で広げてくれる。アリシアは震える手でペンを握り、自分の名前を書き込んだ。まるで自分の運命に署名したかのような重みを、ペン先に感じる。
「これで、正式にアリシア・ヴァンスタイン――特務B執行官、の誕生ね。ようこそ、特務B班へ」
契約書を受け取り、班長は心からの笑みでアリシアを見つめる。アリシアはその優しい眼差しに答えるように微笑み返したが、次の瞬間、瞼が重くなっていく。痛み止めのせいか、疲労のせいか、急激な眠気が襲ってきて意識が遠のく。
「……よろしく、お願いします……」
それだけ呟くと、アリシアは安堵に包まれながら深い眠りに落ちていった。戦いの記憶が走馬灯のように浮かぶが、班長の微笑んだ顔が最後に焼き付いて、すべてが闇に消えていく。
夜が更け、仮設拠点の灯りが微かに渓谷を照らし出す。時折、遠くから夜行性の生物が鳴く声が聞こえ、暗い空には星々が瞬いていた。戦闘の緊張感から解放された特務B班のメンバーたちは、それぞれ短い休息を取っている。
あるテントの中、如月は集めたデータを膨大なファイルにまとめ、端末画面と格闘中だ。怪物の遺伝子情報、戦闘ログ、アリシアのバイド比率やスラッシュゼロの波動エネルギーの変化量など、分析すべき項目が山のようにある。
「ふう……これだけの変異体を短期間に倒したんだからなぁ……。アリシア、すごい子だ」
彼は眼鏡を外し、目頭を押さえながら軽く溜息をつく。36歳にしては老け顔とよく言われる彼だが、実際こうして夜中まで仕事をしていれば、疲労も相まって老け込むのも仕方ない。とはいえ、アリシアの奮闘がなければ、こうして解析結果を見ることすらできなかったと思うと、感謝の念が湧く。
「本当に、よくやってくれた。……まだ子供なのにな」
如月はそう呟き、デスクの隅に置かれた写真立てをちらりと見る。そこには幼い女の子と笑顔で写る自分の姿がある。自分の娘も、もしあの子と同じ年頃になったら――などとつい考えてしまい、胸が締め付けられる。
一方、車両の側では、ダニーとドクター・Lが言い争いに近いやり取りをしている。ダニーは修理用の工具を抱え、ドクター・Lは何やら医療機材を持っている。
「だから、彼女がまともに動けるようになるには、もう少し休養が必要だって言ってるでしょう?」
「そりゃあ分かるけどよ、こっちだって早めにスラッシュゼロの調整をしておきたいんだ。明日出発するかもしれないし、その前に状態をチェックする必要がある」
「なら、寝ている間にこっそりやれば? 痛みがひどいなら神経に触る操作は避けてちょうだい。もし悪化したら、あなたのせいよ」
「わーってるって。俺は“女”を粗末に扱わない主義さ」
そんな軽口が飛び交うのも、特務B班ならではの光景だろう。互いの仕事に強いこだわりを持ちながらも、最終的には目的を同じくして協力し合う。明日を生き延びるために、そして怪物から人々を救うために。
そして、少し離れたテントでは、班長が報告書をまとめながら、遠くの街と通信をしている。軍と政府、企業、そしてエドワード・ルミエールのような“純人類”に関わる噂も耳に入っているが、今は目の前の脅威に集中せざるを得ない。
「……そう。では次のポイントへは明朝出発する予定。引き続き、怪物発生情報の共有をお願いするわ」
通信を切ると、班長は夜空を見上げる。満天の星が広がる美しい夜空だが、その輝きも人類の未来を保証してくれるわけではない。
「まだ戦いは始まったばかりか……」
彼女はそう呟き、手元の書類を見やる。そこには「アリシア・ヴァンスタイン――特務B執行官任命書」と大きく書かれている。17歳の少女が背負うにはあまりにも重い使命。しかし、それでも彼女は歩むことを選んだ。ならば、自分たちは全力で支えなければならない。
「私たちは、あなたを孤独にしない。必ずね」
そう誓うかのように、班長はそっと書類を撫でる。明日もまた戦いがある。その先に何が待ち受けようとも、この部隊はアリシアとともに進むだろう。バイド係数、怪物化、人類の新たな危機。そしてRシリーズというロストテクノロジーの秘密が一つずつ解き明かされていく中で、特務B執行官としてのアリシアの歩みが、世界の命運を左右するのかもしれない。
夜気は冷たいが、テントの中はそれほど寒さを感じない。小さなランタンの灯りが揺れながら、特務B班の隊員たちを優しく包んでいる。そして彼らは、夜明けとともに再び出発する。
その日は、アリシアにとっての“特務B執行官”としての初陣が終わった記念すべき日となった。けれど、誰もがまだ知らない。バイド混血と怪物化の存在が、やがて世界を大きく揺るがす事件へと連なっていくことを――。アリシアの苦難は、まさにここからが本番なのだ。