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Symphony No. 9 :EP3-1
暮れゆく空には一筋の月が浮かび、星もまだ弱々しい光で瞬き始めたばかり。通り沿いには屋台がいくつか並び、串焼きの香ばしい香りやスパイスの効いたスープの匂いが鼻をくすぐる。往来する人々はまばらだが、笑い声と足音が混在し、どこか賑わいの名残を感じさせた。
ヌヴィエムはフード付きのマントを羽織り、髪を隠すようにして歩いている。目立たない格好をしているつもりだが、その物腰や雰囲気はどうしても貴族的で、周囲の人々が興味深そうに視線を寄越してくる。
「ヌヴィエム、あまり緊張しなくても大丈夫よ。ここの人たちはあなたを知らないわけじゃないかもしれないけど、今は何が起きても不思議じゃない世の中だから、貴族が夜に出歩いていてもそう珍しくは思わないと思うわ」
エレノアは軽妙な口調でそう言いながら、きらびやかなローブを翻す。彼女は魔術師として旅を続けてきたが、最近はオート侯家の参謀役としてヌヴィエムを手伝っている。軽やかでセクシーな雰囲気を持ちながらも、どこかしたたかな知性を感じさせる女性だ。
「でも、エレノア……やっぱり少し怖いわ。こんな夜更けに城下町を歩くなんて、父が生きていた頃は滅多になかったもの」
「今は戦の気配が高まっていて、みんな心が荒んでいるかもしれない。でも、だからこそ感じられるものもあるわよ。さあ、あの噂の酒場はもうすぐそこ。ちょっと覗いてみましょう?」
エレノアが指差す先に、小さな看板がかかった酒場が見える。灯火が扉の隙間からあふれ、楽しげな話し声やざわめきが漏れ聞こえてくる。まるでそこだけが温かな空間であるかのように感じられ、ヌヴィエムは自然と足を向けた。
酒場の扉を開けると、まず鼻をつくのは酔客たちの体温と酒の香り、そしてどこか甘いフルーツの香りを混ぜたような独特のにおいだった。中はそれほど広くないが、中央にやや広めのスペースがあり、その周囲に円卓が並んでいる。壁には素朴な装飾が施され、天井から吊り下げられたランプが揺らめくように場を照らしていた。
テーブル席では、旅人風の男や地元の若者、さらには見慣れない異国風の装いをした女性までもが、グラスを片手に談笑している。時折、大きな笑い声が上がり、見知らぬ者同士が言葉を交わしては親しげに乾杯していた。
「ここが噂の“フレイル酒場”ってやつね。通称“踊る酒場”とも呼ばれているらしいわ。音楽と踊りが好きな人が集まるんですって」
エレノアが耳打ちしてくる。ヌヴィエムは興味津々にあたりを見回しながら、「踊る酒場?」と小さくつぶやいた。
「ええ。ここではたまに即興の演奏やダンスが始まって、客同士が楽しむそうよ。ほら、カウンターの奥に小さな舞台みたいなスペースがあるでしょ?」
その視線の先には、確かに板張りの小さなスペースがあった。まだ誰も立ってはいないが、楽器らしきものが壁際に置かれているのが見える。ヌヴィエムは「お客さんが自由に使っていいのかな……」と心の中で思いながら、こくりと頷いた。
「よし、じゃあまずは席を探しましょうか。あんまり目立たない隅の方がいいわね」
エレノアが手を振ると、酒場の給仕らしき若い男が気づいて近づいてきた。とても人当たりの良い笑顔で、
「いらっしゃいませ、お嬢さん方。空いている席は……あちらの壁際がちょうど空いていますよ。何をお持ちしましょう?」
エレノアが軽くウインクして、「二人ともソフトな飲み物でね。私は果実酒で大丈夫だけど、この子(ヌヴィエム)は……どうする?」と尋ねる。
「わ、わたしは……そうね、薄めのフルーツワインか何か、甘いので……」
ヌヴィエムは慣れない笑みを浮かべながら答え、給仕が「かしこまりました」と頭を下げて去っていく。その一部始終を、少し離れた席から護衛兵が見守っていた。
ヌヴィエムとエレノアが隅のテーブルに腰を下ろすと、酒場のざわめきが程よく耳に届く。大声で笑い合う客、テーブルを囲んでカードゲームに興じる客、そしてボソボソと取引をしているらしき怪しい影。まさに雑多な人々が混在する空間であり、同じ領地に暮らしていても、城館とはまったく違う世界がそこにはあった。
「すごい……こんなに人が集まってるんだ。しかも、皆楽しそう」
ヌヴィエムは目を輝かせる。城の中では、兄弟の対立や連日の賊の襲撃に疲れ切った家臣たちを相手にすることが多く、笑顔を見る機会は少なかった。それがここではどうだろう、まるで別世界のような賑わいに包まれている。
「そうでしょう? 戦乱の時代でも、笑って飲んで過ごす場所っていうのはあるのよ。人間って、どんなに辛い状況でも笑うことを忘れない生き物なんだから」
エレノアはグラスを指先で回しながら言う。間もなく給仕がやってきて、フルーツワインと果実酒をテーブルに置いていく。淡いピンク色のワインを見つめながら、ヌヴィエムはそっと口をつける。
「ん……甘い。なんだか、ほっとする味」
「うふふ、でしょ? じゃあ乾杯する? あなたのこれまでの奮闘と、これからの成功に」
「そうね、乾杯しましょう」
そう言って軽くグラスを合わせると、ほんのささやかな音が鳴る。ヌヴィエムは微かに微笑みながらワインを飲み、体の奥にじわりと温かさが広がるのを感じた。
酒場での喧騒が少し落ち着いた頃、中央のスペースに三人組の演奏者が立ち始めた。薄汚れた服を着た若い男と女、そして痩せぎすの老年の男だ。それぞれが弦楽器や打楽器を持っており、客に向かって軽く頭を下げると、演奏を始める合図をとった。
「お、なんだなんだ? 始まるのか?」
「おお、あの三人組か。最近ちょくちょく見かけるんだよな」
客たちが興味を示し、自然と視線が舞台に集まる。男が弦を爪弾き始め、リズミカルな音が酒場に流れ出す。続けて女が打楽器を叩き、老年の男が低い声で合いの手のような調子を加えた。その音楽は素朴だが不思議な活力に満ちており、聞いているうちに体が自然と揺れてしまうような魅力があった。
「へえ……即興なのかしら? それとも練習してきたのかな」
エレノアがワインを飲みながら、楽しそうにリズムを取る。ヌヴィエムは耳を澄ませるようにして聞き入り、いつの間にか足先をトントンと動かしている自分に気づいた。音に合わせて身体が動く──これが民衆の間で自然に生まれる楽しみなのだと、彼女は初めて体感する。
やがて演奏者の女が、明るい声で歌い始めた。歌詞は聞き慣れない方言混じりだが、酒場の客たちはすぐにそのメロディに合わせて手拍子をし出した。声を上げる者、踊りだす者、自然と酒場全体が一体感を帯びていく。
「すごい……音楽が、こんなにも人々を結びつけるなんて」
ヌヴィエムの目が輝く。まるで、さっきまで別々のテーブルで会話していた人々が、今この瞬間、音楽を共有する仲間として心を通わせているようだ。
すると、奥のテーブルにいた派手な衣装を纏った女性が立ち上がり、腰につけた鈴のついたスカーフを振りながら舞台に進み出た。周囲から歓声が上がる。
「出た、あの踊り子だ!」
「おお、また見られるのか、ラッキーだ!」
彼女は酒場で評判の即興ダンサーらしく、踊るのが好きで、気が向いたときだけ舞台に飛び入りするのだという。楽器のテンポに合わせて腰をくねらせ、ステップを踏みながら鈴を鳴らす。その動きは艶やかでありながら、どこか陽気さがあって、見ている者の心を浮き立たせる。
客席から喝采が起こり、拍手が次々と鳴り響く。その大きな波が音楽をさらに盛り上げ、歌手の声もいっそう弾むようになる。酒場の空気は、まるで一つの巨大な生き物のように呼吸を合わせ、楽しみを共有していた。
その光景を見ていたヌヴィエムは、なんとも言えない胸の高鳴りを覚える。
(これが、音楽と踊りの力……。今まであたしが城で歌っても、こんな一体感を感じたことはなかった。兵や家臣の士気を高めるのとはまた違う……人の心が自然に解放されるような……)
しかし、そんな陽気な雰囲気が最高潮に達しようとしたとき、酒場の入り口付近で大きな音がして扉が乱暴に開いた。背の高い男が数名を引き連れ、酒場に踏み込んでくる。男の腕には太い筋肉が隆起し、鞘のない剣をむき出しで持っていた。
「へへっ、ずいぶん盛り上がってるじゃねぇか。こんな時代に呑気に踊りやがって……どうやって楽しんでるか、教えてもらおうじゃねぇの」
一気に音楽が止み、酒場の空気がピリリと張り詰める。踊り子の女性が一歩後ずさり、周囲の客も怯えたような目で男を見つめる。男はどうやらこの近辺で悪名高いゴロツキらしく、一目で面倒な相手だとわかる雰囲気を漂わせていた。
「き、気をつけろ。あれはデカ爪のラゴスとその手下だ……」
「なんでここに……前に追い出されたはずなのに」
客たちが囁き合う中、男は「ラゴス」と呼ばれているらしい。その太い腕にいくつかの傷跡が走り、鋭い眼差しで店内を見回す。そして、舞台の上にいた踊り子を嘲笑うように指差した。
「なんだ、その腰振りは。俺らにも見せてくれよ。もっと近くでなぁ」
「……っ!」
踊り子は怯んで身を硬くする。すると、ラゴスの部下の一人がニヤニヤしながら舞台に上がり、彼女の腕を掴もうとした。周囲の客が「やめろ!」と声を上げるも、相手は物怖じする様子がない。
そのとき、ヌヴィエムは心の奥で何かが突き上げるのを感じた。
(こんな……楽しんでいた人たちを脅かすなんて許せない!)
しかし、彼女はここで正体を明かして騒動を大きくするのは避けたかった。城の当主代理ともあろう者が、夜の酒場で大立ち回りなどすれば、翌朝には噂が広まり、兄弟や貴族たちにまた突かれるかもしれない。それでも、放っておくわけにはいかなかった。
「エレノア、あたし……」
「わかってるわ。私も同じ気持ちよ」
エレノアが微笑みながらローブの裾をそっと引き、魔術の道具を手にする。彼女が火術や幻術を使えば、多少はゴロツキたちを蹴散らせることができるだろう。ただし、ここは酒場の中。大きな火術を使えば店ごと燃える危険があるし、幻術で混乱を起こせば客がパニックに陥るかもしれない。
一方、ヌヴィエムは音術を使うことを考えた。ゴロツキたちの心を乱し、できるだけ戦闘を避けるように誘導する手段――それができれば、被害を最小限に抑えられるだろう。彼女は装置に手を添え、小さく息を整える。
「まずは、静かに……あたしに任せて」
エレノアは「いいわよ、援護は任せて」と低く囁き、警戒を解かないように見守る。
ラゴスの手下が踊り子の腕を掴みかける瞬間、酒場の隅から静かな旋律が流れ始めた。最初は誰もそれに気づかないほど、小さな音だった。しかし、ヌヴィエムの音術は空気の微振動を増幅させ、徐々に人々の耳へと浸透していく。
「……なんだ、今の音?」
「え、音楽が……?」
店内のざわつきがわずかに落ち着く。その刹那、踊り子が腕を振りほどいて逃げ出すことに成功し、ラゴスの部下は「チッ!」と舌打ちする。しかし、再び追おうとしても、どこか意識が不安定になったように動きが鈍るのだ。
ヌヴィエムはゆっくり立ち上がり、店の中央部へ歩みを進める。フードを脱いだ赤い髪が光に照らされ、美しいウェーブが淡く揺れる。その姿に、客たちは息を呑むように見入った。
(怖いけど、やらなくちゃ……この人たちの楽しみを、こんな奴らに壊されたくない!)
唇を開き、静かな歌を紡ぐ。音術装置を通じて響く声は、酒場の広さには十分なボリュームを持ち、しかし攻撃的ではなく柔らかな波長を帯びていた。酒の酔いが回った人々の意識に、まるでそっと寄り添うような音色。
「おい、なんだ……お前は」
ラゴスが剣を肩に担いだまま、ヌヴィエムを睨む。酒場の中央で歌う少女の姿は、明らかにこの状況に似つかわしくない。それでも、彼は気圧されるように僅かに声の調子を落とした。
「ここは……楽しく踊る場所よ。あなたたちが暴れる場所じゃないわ」
ヌヴィエムは歌を続けながら、間にセリフを挟むように低く言葉を紡ぐ。音術を使う際の呼吸法を維持しつつ、相手に対して明確に拒絶の意思を示す。
「はっ、楽しく踊る? 笑わせるな。こんな時代に……」
ラゴスの目が怒りの色を帯びる。しかし、彼は妙な頭痛や耳鳴りを感じ始め、剣を握る手が若干震えていた。ヌヴィエムの歌声が、その攻撃的な感情をわずかに鈍らせる作用を及ぼしているのだ。
「うっ……なんだ、この気持ち悪い響きは……!」
ラゴスの部下たちも困惑し、思うように行動できなくなる。一方で、店の客たちはヌヴィエムの歌による安心感を感じ取り、次第に落ち着きを取り戻していく。踊り子も、遠目でその歌を聞きながら胸を撫で下ろしていた。
(もう少し……このまま、戦いにならないように……)
ヌヴィエムは必死で集中力を維持し、音術の周波数を調整する。相手を直接的に拘束するほどの力はないが、“闘争心”を緩和させ、混乱を引き起こすには十分だ。
しかし、ラゴスはそこまで簡単に屈しない男だった。彼は剣を握りしめ、頭を振り払うようにして叫ぶ。
「こんな安っぽい音で……俺様を操れると思うなよ! おい、てめえら、やっちまえ!」
叫んだ瞬間、部下たちが鼓膜の違和感を無理やり振り切るようにし、テーブルを蹴飛ばしたりグラスを割ったりして威嚇を始める。店内が再び悲鳴に包まれ、演奏者たちも楽器を落として怯える。
「くっ……!」
ヌヴィエムは、これ以上の動揺を防ぐために歌声を高めようとするが、ラゴスが猛然と突進してきた。剣を振りかざして舞台を壊すつもりらしい。
その時、エレノアが素早く動いた。ローブの内側から宝石をあしらった短いロッドを取り出し、幻術の魔力を放つ。閃光がラゴスの視界を一瞬奪い、その隙を突いて店内の護衛兵がラゴスを取り囲もうとした。
「うるせぇ、邪魔だ……!」
しかし、ラゴスの剣筋は思いのほか鋭く、護衛兵の盾を弾き飛ばす。悲鳴が上がり、客たちがさらに後退する。猛烈な力に圧倒され、店のテーブルが壊され、樽が転がり、酒が床にこぼれ始めた。
店は修羅場と化す。エレノアが追加の幻術を試みようとするが、狭い店内で火術を使えば被害が広がる恐れがある。ラゴスの力は予想以上で、護衛兵も簡単には近寄れない。剣を振り回すたびに、大きな破壊音が響き、客たちが逃げ惑う。
「これは……まずいわ。どうする、ヌヴィエム?」
エレノアが眉をひそめて言う。ヌヴィエムは歌を断続的に続けながら、頭を回転させる。
(こんな形で戦闘になってしまえば、せっかくの酒場がめちゃくちゃになる。みんなが楽しんでいたのに……少しでも被害を抑えるには……)
そう考えた末、ヌヴィエムは一つの決断をする。音術を使って、ラゴス以外のゴロツキを完全に混乱させ、数を減らす。その間にエレノアや護衛兵が的確に対処すれば、大乱闘にはならないはずだ。問題はラゴス本人――彼の闘争心をうまく封じる必要がある。
ヌヴィエムは店の中央へと一歩踏み出す。ラゴスが剣を振りかぶり、天井の梁を斬りかけた瞬間、ヌヴィエムはできるだけはっきりとした声量で高音を出す。
同時に音術装置の操作で周波数を高め、ゴロツキたちに焦点を当てるように意識を集中する。高音による不快感と意識の揺さぶり――まるで頭に針を突き立てられたような感覚を与えるのだ。
「うあっ……!」
「ぐっ……頭が……!」
ラゴスの部下たちが短剣や鈍器を落とし、膝をつく。客たちの耳にも若干のきつい音圧が届くが、ヌヴィエムは周囲の民衆を最小限巻き込むように気を配っている。護衛兵がすかさず動き、倒れかけの部下たちを押さえ込み、縄で縛り始めた。
一方、ラゴスは強靭な体と意志力で音術の干渉に耐えていた。剣を握る腕がわずかに震えているが、まだ倒れる気配はない。
「こんな……邪魔な音、振り払ってやる……!」
バキッと音を立てて床板を踏み締め、ラゴスがヌヴィエムへ向けて突進してくる。その姿に、店の客は「やめろ!」と叫ぶが、止められない。ヌヴィエムはギリギリまで歌を維持し、ラゴスの闘争心を削ごうと試みるが、猛進する男の力は勢いを失わない。
「姉上っ……!」
そこで、入り口付近で様子を見守っていたユリウスが真っ先に動いた。彼はまだ剣の腕も未熟だが、“守るため”に飛び込む決意は揺るがない。床に溢れた酒で足元が滑りやすい中、必死に踏み込む。
「くっ……ラゴス、ここは引け……!」
ユリウスは一太刀、ラゴスの剣に合わせて斬りかかる。金属音が激しく店内に響き、ユリウスの腕が痺れるほどの衝撃が伝わる。
だが、ラゴスの腕力は圧倒的だ。ユリウスはあえなく弾き飛ばされ、テーブルに激突して苦しげな声を上げる。
「ユリウス……!」
ヌヴィエムは思わず叫ぶ。ラゴスはそのまま勢いでヌヴィエムへ斬りかかろうとするが、エレノアが横合いから光の閃光を放ち、わずかに視界を奪うことに成功する。
「うおっ……目が……!」
視界が乱れたラゴスが腕で顔を覆った隙に、ヌヴィエムは音術装置を調整して最後の一撃を試みる。鋭く、しかし繊細なメロディを高周波で放ち、ラゴスの耳に直接響かせるように狙う。
「うあああっ……なんだこれ……!」
ラゴスは苦痛に耐えかねて剣を落とす。ついに限界を迎えたのか、膝を地面につき、荒い息を吐きながら倒れ込むようにして気絶した。
店内が一気に静まり返る。ユリウスがテーブルの下から痛む身体を支えながら起き上がり、肩で息をしている。ヌヴィエムは胸を押さえながら、何とか自分を落ち着かせようと深呼吸した。
(終わった……よかった。みんな、無事かしら……)
あたりを見回すと、酒場の客たちは呆然としながらも大きな被害は受けずに済んだようだ。演奏者や踊り子も壁際に隠れており、怪我はない様子。ラゴスの部下は護衛兵に取り押さえられ、ラゴス本人もエレノアが拘束用の術具を使い、しっかりと手足を縛っている。
「やった……姉上、すごいです……!」
ユリウスが安堵の表情を浮かべながら近寄ってくる。ヌヴィエムは弟の顔に傷がないか確かめ、「無理しないで、ありがとう……」と微笑んだ。その笑顔は疲労もにじむが、どこか満足そうだ。
すると、一人の客が椅子を鳴らして立ち上がり、ヌヴィエムのほうを向いて拍手を始める。続けて、周囲の客も拍手に加わり、次第に大きな歓声へと変わる。
「すげえ……あの歌でゴロツキどもを倒したのかよ!」
「あんな見事な声……まるで天女が舞い降りたみたいだ」
「女神様……いや、お姫様か? どっちにしてもかっこよかったぜ!」
拍手と歓声が沸き上がり、店内は先ほどまでの恐怖が嘘のように温かい空気に包まれる。踊り子も泣き笑いのような表情でヌヴィエムに頭を下げ、「ありがとうございます……助かりました……」と声をかける。
ヌヴィエムは戸惑いながらも、客たちの歓声に目を潤ませる。これまでは“犬の子”と蔑まれ、貴族の権力争いで振り回されるばかりだった自分が、こんな風に“感謝”や“賞賛”を受けるなんて思ってもみなかった。
「み、みんな落ち着いて……私、ただ守りたかっただけで……」
そう言いつつも、心の奥で喜びが広がる。音術を使い、皆を救うことができた。そして、その歌を受け取った人々が笑顔を向けてくれる。この感覚は、ヌヴィエムにとって初めての大きな発見だった。
酒場の店主と思しき壮年の女性が、ヌヴィエムに深くお辞儀をする。
「助けてくださってありがとうございます。あの連中は前にもトラブルを起こして、もう来るなと言っていたのですが……。貴女のおかげで大惨事を防げました。何かお礼をしたいところですが……」
「いえ、そんな……私は大したことは。みなさんが無事ならそれで……」
ヌヴィエムははにかむように答える。店主は恐縮しきりだったが、ふとステージの楽器を見て思いついたように言った。
「そうだ……もしよければ、この場で何か歌っていただけませんか? あんなに綺麗な声が出せるのなら、ぜひ……」
周囲の客たちからも「歌って!」という声が上がる。踊り子や演奏者もワクワクした面持ちだ。確かに先ほどは戦闘のための音術だったが、ヌヴィエムにとって歌うことは本来、楽しみや人々の心を引き寄せる手段でもある。
「あ……あたし、うまくできるかな……」
ヌヴィエムは戸惑いながらも、その視線に応えるように小さく頷いた。エレノアやユリウスが微笑んで見守っているのを感じ、彼女の背筋に少しだけ勇気が宿る。
「わかりました。じゃあ……ちょっとだけ、歌ってみます」
そう宣言すると、先ほどの演奏者たちが目を輝かせて楽器を構えた。ヌヴィエムは彼らに合わせて即興で旋律を合わせる。音術装置は控えめにし、あくまで自然な歌声をメインにするつもりだ。
ポロン……と弦が鳴り、リズムが静かに流れ始める。ヌヴィエムは息を整え、唇を開いた。
静かなイントロが終わると、ヌヴィエムの柔らかなソプラノが酒場全体に広がる。曲は即興に近いものだが、彼女がいつも“音術”の練習で口ずさんでいた旋律を少しアレンジしている。その歌詞は言葉少なめで、どこか切ない調子を含む。
歌が始まると、先ほどまで騒然としていた店内が再び落ち着きを取り戻し、客たちは聞き入るように静かになる。演奏者も自然と息を合わせるように弦や打楽器の音を優しく重ね、踊り子はその旋律に合わせて穏やかなステップを踏む。
ヌヴィエムは自分の声が音となって空気を振るわせ、人々の心に届く感覚を確かめる。少し前までは、敵を抑えるために高周波の攻撃的な音術を使っていたが、今は純粋に「心を一つにするための音」を奏でる。それはあたたかく、優しく、包み込むような響き。
やがて、歌の中盤でテンポが上がると、一人の客が手拍子を打ち始め、他の客も続々と合わせる。踊り子は笑顔でステップを軽快にし、演奏者たちは楽しげにメロディを変化させる。まるで、先ほどの恐怖が嘘のように、酒場は再び一体感に包まれる。
ヌヴィエムの胸には新たな感動が押し寄せていた。
(これが、あたしにできることなんだ……歌と音術で、人々を結びつける……!)
曲が終わると、大きな拍手喝采が起こった。演奏者たちは笑顔でヌヴィエムにお辞儀し、踊り子は「すごい……あなた、ただものじゃないわ」と感嘆する。客も口々に「最高だった!」「あんな綺麗な歌声、聞いたことねえ!」と賞賛の言葉を投げかける。
ヌヴィエムは顔を赤らめながら、一つ一つの声援に頭を下げる。こんなに直接的な反応をもらうのは初めてで、戸惑いと嬉しさが混ざった複雑な気分だった。
「姉上……すごいです、本当に……」
ユリウスが側にやってきて、小さく言う。彼も先ほどの痛みを忘れるほど、姉の歌に魅了されていたのだろう。エレノアは「うふふ、まるでアイドルね」と笑ってローブを翻す。
「アイドル……?」
「そう、みんなを魅了する存在という意味よ。あなたにはその資質がある。戦いや政治だけじゃなく、音楽やパフォーマンスで人々を一つにできる。その可能性に気づいたんでしょう?」
エレノアの言葉に、ヌヴィエムはハッとする。確かに、さっき感じた一体感は、戦場で兵士を鼓舞するための「音術」とは別の次元の喜びだった。領地の人々がひとつにまとまり、笑顔で過ごす未来を作りたい――その思いが胸を熱くする。
「あたし……わかったの。これが必要なんだって。みんなが一つになって、恐れや悲しみを忘れられる瞬間が、必要なんだって」
ヌヴィエムは小さく呟くが、その声音には明確な決意が宿っている。エレノアは満足げに頷き、
「じゃあ、早速“アイドル活動”を始めてみる? 城の中だけじゃなく、こうした民衆の前で歌ったり踊ったりして、あなたの声を届けるの。戦いや復讐ばかりじゃなく、明るい未来のためにね」
「うん……やってみる。あたしは、この領地を戦乱から守るためにも、人々の心を結びつけるためにも、歌いたい」
その言葉に、エレノアもユリウスも微笑み、店内の客たちが「もう一曲!」と囃し立てる。ヌヴィエムは照れながらも、小さく頷いて再び舞台に上がった。
その後、ヌヴィエムは急遽もう一曲だけ披露し、店内は大盛り上がりとなった。ゴロツキたちは護衛兵に連行されていったあとで、踊り子や演奏者も安心してパフォーマンスを再開し、即興の宴が続いていく。
ユリウスは体に痛みを残しながらも、姉の新たな才能が花開く様子を目にして、嬉しさと誇りを感じていた。エレノアは踊り子と共にステップを踏み、楽しそうに笑う。その光景は、まるで大きな戦いなどどこにもない平和な世界の縮図のようだった。
(これが……あたしがやりたいこと。音術でみんなを笑顔にする……そして、いつかは戦わずに済む未来を創る)
ヌヴィエムはそんな思いを胸に抱き、歌い終わったあとに息を整えて椅子に座った。城での厳しい現実を思い出すと、先行きは決して楽観できないとわかっている。だが、この酒場で得た「人々との繋がりを実感できる歌の力」は、彼女を新たなステージへと導く大きな原動力になるだろう。
夜更けが近づき、酒場の熱狂も少しずつ収まってきた。ヌヴィエム一行は店主や客に何度も礼を言われつつ、店を後にする。外には澄んだ月の光が静かに照らし、先ほどまでの騒ぎが嘘のようにしんとした空気が広がっていた。
「姉上、先に馬車まで戻りましょう。護衛兵が警戒してくれているはずです」
「ええ、そうね。みんなの邪魔にならないうちに帰らないと……でも、すごく楽しかったわ」
ヌヴィエムは今夜の体験を噛みしめるように深呼吸する。エレノアが隣でクスリと笑い、
「アイドル活動、いけるわよ。これは絶対に盛り上がる。あなたの音術と歌の才能を組み合わせれば、きっと民衆は大喜びするわ。大変な時代だからこそ、希望を与えてくれる存在をみんな求めているの」
「うん、あたし……やってみる。城や戦場だけじゃなく、こうして民衆が集まる場所で歌や踊りを披露して、悲しみや不安を少しでも忘れさせたい。戦乱を越えて、もっと大きな幸せを作るために……!」
その言葉に、ユリウスも「僕も護衛として力をつけるから、安心して歌ってほしい」と真剣な眼差しを向ける。エレノアは「じゃあ、私も幻術やメイクでサポートしようかしら」といたずらっぽくウインクする。
こうして、ヌヴィエムは決意を新たに城へ戻っていった。彼女が経験した城下の酒場での一夜は、新たな“音術によるアイドル活動”の始まりを予感させる、かけがえのない第一歩となる。