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Symphony No. 9 :EP12-2

エピソード12-2:仲間たちとの再会

夜の帳が下りはじめた砦には、満天の星々が光り、涼しい風が石畳を撫でていた。広場の中央に設えた灯りが、今はやわらかな明かりを落としている。いつもなら静かなこの時間、なぜか内側から沸き立つような熱気が漂い、そこにはかつての戦友たちが集まる気配があった。ヌヴィエムが退位を宣言して以来、砦は大きく転換しつつあるが、今宵はこれまでの激闘を共に戦い抜いた“仲間たち”との再会が予定されているのだ。

少し前まで、ヌヴィエムは大陸中でその名を知らぬ者はいないほどのカリスマ的存在だった。エッグとの死闘、分散治世の推進――いずれも彼女が音頭を取り、指揮した結果でもある。だが、つい先日、ヌヴィエムはその地位を降り、ただの一市民として生きる道を選んだ。砦の民衆には寂しさもあったが、その勇気ある決断を誰もが敬意を持って受けとめ、今は彼女を支える気持ちが満ちている。そんな折、かつて戦場をともにし、各地へ散っていった戦友たちが“皆そろって”戻ってくるというのだから、期待しないわけにはいかない。

「とはいえ、ずいぶん時間が経ったよね。彼らが出発したのは、一年以上前になるかしら」
ヌヴィエムは砦の奥まった回廊を抜けながら、小声で呟く。隣には弟のユリウスが寄り添い、まだ完全に治りきっていない足を少し引きずりつつも、姉の歩幅に合わせていた。
「そうだね。ベルトランの影を追って出て行った者もいるし、領地の復興を優先した仲間もいる。あの頃は皆が散り散りになったから……姉上もよく引き留めずに送り出したよ」
ユリウスの声は懐かしさとほろ苦さが入り混じっていた。その半年後には、自分もまた重傷を負って寝たきりになったのだから、再びこうして姉と歩けるだけでも不思議な思いがある。

「わたしたちもあのころは、それぞれの立場を必死にこなすだけで精一杯だったわ。でも、こうしてみんなが戻ってきてくれるなら、分散治世が形になったことを見てもらえるじゃない。大きな戦いは終わり、民衆が自立の道を歩いてる。いまなら、堂々と誇れるわ」
ヌヴィエムの口調はどこか弾んでいる。退位したとはいえ、かつて共に剣を交え、血と汗を流した仲間たちに会うのはやはり嬉しい。思い浮かぶのは、ネーベルスタン将軍の厳格な顔や、火術師として巧みな技を披露した者、幻術を駆使して皆をサポートした者など、かつての旅路で出会った面々の姿だ。

砦の正門が静かに開き、そこには一台の馬車と数頭の馬が停まっていた。馬を押さえているのは王都代表の兵で、その奥には見慣れた顔がちらほらと覗いている。ヌヴィエムの心臓はときめくように早鐘を打った。
最初に目に入ったのは、白髪まじりの老将。かつてネーベルスタン将軍と呼ばれた男が、口を結んで辺りを見回している。かつての死闘で無数の傷を負ったが、今はその頬に若干の血色を取り戻し、落ち着いた姿を見せている。誰かに声をかけられたのか、ひどく懐かしそうに砦の石壁を見つめた。
「将軍……!」
ヌヴィエムが思わず呼びかけると、彼の視線がこちらに向き、そして目を見開く。すぐさま軽い頭の下げ方をして、「ヌヴィエム様……いや、もう様ではないか。久しぶりだな、こうして直接顔を合わせるのは」と苦笑する。その声に、当時の厳しい戦場が甦ってくるようだ。

「将軍、お変わりなく……本当に、ご無事で何よりです。あたしは……見ての通り、あまり変わってないわよ。そっちはどう?」
冗談めいた問いかけに、ネーベルスタン将軍はくぐもった笑いで返し、「負けぬよ。エッグの時代は過ぎ去ったが、まだまだ世に残った火種を消すために各地を回っていた。ここに戻れば、おまえ……いや、ヌヴィエムがおらぬとの噂を聞いてな。退位したとか、本当か?」と真っ向から確認にきた。その真剣な目は昔と変わっていない。
ヌヴィエムはしばし微笑んでから頷き、「ええ、本当よ。いまは権力者ではなく、一市民として暮らしてる。将軍が戦場を駆けていたころのように、あたしは指揮をする必要がなくなったの。分散治世はもう安定し始めたから」と言い切る。その言葉に、ネーベルスタンはまた苦笑して、「ああ、なるほどな……おまえらしい」と返すのみだった。

その脇では、火術師らしき男が「ヌヴィエム! おれたちを忘れてもらっちゃ困る!」と声をかけてくる。見れば、かつて火の術で砦を支え、一緒に怪物と戦った若者の一人だ。顔には新たな傷跡が増えているが、いたって元気そうだ。連れ立っている数名も、魔術の雰囲気を漂わせている。
「おお、あなたたちまで……久しぶりね。あたしが退位すると言ったら、どこからともなく駆けつけてくれたってわけ?」
火術師が意地悪く口を尖らせ、「ちょっとは感謝してくれよな。おれたちだって好きでここまで来たわけじゃない、ただ、戦場で一緒だった仲間が分散治世を実現して退位するって聞けば、そりゃ祝福にくるしかないだろう?」とからかうように言う。
ヌヴィエムは思わず吹き出してしまう。あのごつごつした指先が、かつては火球を次々と投げ込んで敵を焼き尽くしたのだ。いま目の前では、少し恥ずかしそうに照れているなんて、状況の変化を象徴するように感じられる。

ユリウスも杖をつきながら迎えに行き、みんなと軽く抱擁を交わしている。「おれがケガで寝たきりだった間、あんたたちがあちこち回ってくれてたんだよな。おれと姉上がここを離れられないぶん、助かったよ」
火術師はあごを撫でながら、「まあな、おまえがあの剣でエッグを砕いたおかげで敵はだいぶ散ってたが、残党が小競り合いを起こしてる地域を回ったりな。分散治世を理解できないヤツらも多かったし……でも、もう落ち着いたもんさ」と胸を張る。

さらに、別の角度からは細身の幻術師が歩み寄ってくる。かつて戦闘のサポートを担当し、何度も仲間たちを救った彼女だ。妖艶な雰囲気は残っているが、これもまた以前ほど鋭利ではない。やわらかな笑みを浮かべ、「ヌヴィエム、あなたが退位してしまったら楽しみが減るじゃない。分散治世の世界もいいけど、あなたにもう会えないかと思ったわ」と冗談をかます。
「何よ、その言い方……ちゃんとここにいるわよ、プルミエールも一緒。もうあの子に手がかかって大変なんだから」
ヌヴィエムが笑って応じると、幻術師は「それは興味深いわ。お母さんヌヴィエム、想像しがたいけど……きっといい母親になるのね」と目を細める。ヌヴィエムはむしろ照れて、「もう、勝手に盛り上がらないで。あたしはただの姉代わりみたいなものよ」と返したが、真っ赤な髪を振って駆け寄ってくるプルミエールを見れば、誰がどう見てもその子を大事にしている母親の姿そのものだった。


夕方が近づくと、砦の広場では皆で小さな祝宴が用意され始めていた。もともとヌヴィエムの退位直後に大きな式典が開かれたが、今回は「仲間たちとの再会」を名目に、急ごしらえのテーブルと炊き出しを並べている。肉や野菜の煮込みにパン、甘い菓子など、民衆が自主的に作った料理が所狭しと並ぶ。かつて戦場を共にした仲間たちは、酒の匂いに誘われて椅子に腰を下ろし、旧交を温める準備をしていた。

砦の上階からその光景を見下ろしていたのは、ネーベルスタン将軍。かつての威厳を保ちながらも、深い皺の刻まれた目がどこか優しげだ。背後に立つヌヴィエムが、「将軍、皆が下で待ってますよ。どうぞ行ってあげてください。あなたの武勇を語りたい若者がたくさんいるんだから」と笑うと、将軍は苦そうに首を振る。
「俺が語らねばならないのは、いまや‘武’の尊さではない。分散治世では、むしろ剣を捨てることを学ぶべきだからな。まぁ、乾杯に付き合うくらいはしてやろう」
ヌヴィエムは「あはは、それもそうですね」と肩をすくめる。すると将軍は鋭い視線で彼女を見つめ、「しかし、おまえが退位とはな。かつてはカンタールの暴政に逆らい、復讐心を燃やしていた少女が、世界をまとめ上げて去る……その変化、感慨深いよ」と呟く。
「そうですね。自分でもびっくりだけど、ずいぶん遠いところまで来た気がします。いまはただ、プルミエールや弟ユリウスと一緒に日々を生きるのが楽しみなんですよ。戦争なんてもう懲り懲りだし、皆に任せれば大丈夫でしょう?」
将軍は深く息を吐き、砦の外を見渡す。「そうかもしれん。昔の俺なら‘甘い’と一蹴しただろうが、今は違う。この世界には、おまえたちが蒔いた種が生えているからな。……さて、祝杯といこう。俺もこの老骨を慰めたい」


やがて夕闇が砦を包み始め、燭台に点された明かりが広場を照らす。その中で仲間たちが円卓を囲み、昔の思い出を語っている。怪物相手に死線をくぐった話や、分散治世を広めるために旅をした話――どれも血が沸き立つような激戦の記憶だが、今となっては笑い話に変わりつつある。
「そういや、あん時はエレノアが火術を暴発させて、みんなで土下座したんじゃなかったか?」
「やめて、それ言うの恥ずかしい……ユリウスが剣を一閃してカバーしてくれたから助かったのよ」
ケラケラと盛り上がる一同。話題は尽きない。ヌヴィエムは少しだけ離れたテーブルに腰を下ろし、プルミエールを膝の上に乗せながら、その光景を微笑ましく見ていた。いつもなら大声で応じるところだが、もう“指導者”ではなく、ただの仲間の一人として静かに祝いの場を楽しんでいる。

そこにエレノアがすっと近づいてくる。濃い目のワインをグラスに注ぎながら、「ヌヴィエム、今夜はめいっぱい飲んでもいいんじゃない? 退位して気楽になったでしょう」と声をかける。プルミエールが「のみたい!」などと意味もわからず言うので、エレノアは苦笑して「こらこら、君はまだ早いわよ」と嗜める。
「そうね、ほんの少しだけもらうかも。朝早く起きてプルミエールを散歩に連れていかないといけないし、あたしが潰れたら困るもの」
エレノアはその発言にくすっと笑い、「あなたが母親然としてる姿、本当に愛らしいわ。以前の復讐に燃えるヌヴィエムとはまるで別人」と言う。ヌヴィエムは「ああ、本当にそうかも」と小さく呟く。分散治世における彼女の影響力は変わらずに残っているが、それはもはや“強い女王”ではなく、ただの“姉”や“母”的な包容力で人を導く形なのかもしれない。


夜が深まり、焚き火が広場の中心でゆらゆらと火の粉を舞い上げている。仲間たちは思い思いに酒を酌み交わし、かつての懐かしい武勇伝や苦労話に花を咲かせる。そこここで盛り上がる笑い声や拍手が、砦の石壁に反響して一層賑やかだ。こんなにも多くの仲間が一堂に会するのは本当に久しぶりで、感慨に満ちている。
ネーベルスタン将軍は空を見上げ、「そろそろ俺は表舞台から離れようと思っていたが、こうして仲間と再会するなら、もう少し頑張ってみてもいいかもしれんな……」と軽く口をこぼし、仲間たちが「何言ってるんだ、まだまだ将軍には教えを請わないと」と煽るように言い合い、大きな笑いが起こる。

ヌヴィエムはプルミエールを子守唄のように軽く揺らしながら、その光景を見守る。戦闘のにおいはどこにもなく、皆が笑顔で穏やかな時を過ごせることが奇跡的に思える。
「あたしの退位は、こんなにも大きな安堵を生み出すんだね……」
背後から弟ユリウスが「姉上、少し外に出て星でも見ない?」と誘ってくる。プルミエールが眠たそうにしているので、「じゃあ、ちょっと外の風に当たってから部屋に戻ろうか」と応じる。

門の近くには、かつて共に怪物を斬った剣士仲間が火の粉を払いながら笑い合っている。その姿を見て、ヌヴィエムは「懐かしいわね。あの人たちとも、ずいぶん戦場を駆け抜けた」としみじみ口にする。ユリウスは深くうなずき、「昔の血みどろの記憶が嘘みたいだよ。いまはみんな優しい顔をしてる。分散治世がここまで平和を実感させるなんて、姉上とフィリップ3世の努力だろうな」と言う。
「ううん、あたし一人じゃない。みんなが自分のできることを見つけたからよ。あなたも剣と火術で、エレノアは魔術で、将軍は経験で……誰もが自分の役割を理解してくれた。それがこの平和を作ったの」
ヌヴィエムはそう返しながら、プルミエールの頭を軽く撫でる。子どもは安心したように目を閉じ、小さな息を立てている。かつてはギュスターヴの剣を掲げ、音術装置を駆使して敵を翻弄した自分が、いまやこんな風に子どもを抱き歩くなど思ってもみなかった。けれどそれは悪くないどころか、かけがえのない幸せに思える。


夜も更け、仲間たちは各々の部屋やテントに戻っていく。砦の広場に残るのはわずかな灯りと、炊き出しの後片付けをする数人だけ。ネーベルスタン将軍や火術師、幻術師たちも、翌日に改めてヌヴィエムと会談する予定だという。民衆には英雄を囲む宴はまた続くだろうが、ヌヴィエムは眠るプルミエールを部屋まで抱いていく必要がある。
ゆっくりと廊下を歩き、自分の部屋を開ける。そこで空気がひんやりと滞り、子どもの温もりが愛おしいほどに腕に感じられる。ユリウスが扉を押さえながら、「姉上、俺が抱えようか? 足が痛むけど、腕は大丈夫だ」と申し出るが、ヌヴィエムは穏やかに首を振る。「いいのよ、重くないし……あなたこそ、まだ体を休めなさい。エレノアがうるさいんじゃない?」とからかい混じりに言うと、ユリウスは頰を赤らめて目をそらす。

「そ、それは……まぁ……うん、今夜はもう休む。姉上もゆっくり休んで。仲間たちとの会話は明日にしてさ。プルミエールも疲れてるだろう」
「わかった。じゃあおやすみ、ユリウス」
扉を閉めたあと、ヌヴィエムは意外なほど静かな気持ちでベッドに向かい、プルミエールを寝かせる。子どもが満足げに息を吐き、微かな寝言を漏らしている。まるで一言、「たのしかった」と言っているかのようだ。
その寝顔を見て、ヌヴィエムは小さく笑う。分散治世が進み、仲間たちが戻ってきて、退位した今、自分は何もかも失ったわけではない。むしろ戦い以外で大切にすべきものを得た。それが“仲間との再会”であり、“子どもを育てる役割”であり、“弟やエレノアらと共に歩む日常”なのだ。

部屋のランプを落として、静かに息を吐く。仲間たちと再会できたことは、この砦がもはや“戦場”ではなく、新しい文化の発信地になっている証でもある。彼らはあの死線をくぐり抜けた“同志”だが、今は戦闘のにおいを感じない。ただの友人として、いつでも砦を訪れ、笑い合える。この安らぎがどれほど尊いか――かつて血にまみれた道を歩いたからこそ、痛いほど分かる。


夜が更け、寝静まった砦の外壁には、少数の見張りが立っている。ヤーデ伯の残党や、ベルトラン派の不穏な動きが完全に消えたわけではないが、彼らに怯える兵士の姿はもうほとんどない。仲間たちがこの地に集う時代になったからこそ、いつ大きな危機が来ても皆で対処できるという自信が芽生えている。
翌朝には、また宴の名残を片づけながら、仲間たちが分散治世の行く末について話し合い、旅で得た経験を共有するのだろう。ヌヴィエムが権力の座から退いても、ユリウスやエレノア、ネーベルスタン将軍、火術師や幻術師たちが連携し、民衆と領主が協力すれば、この世界はもう崩れない。彼女が常々言っていた「戦わずに済む未来」に近づくのを、誰もが感じている。

その夜明け前、一度目を覚ましたヌヴィエムは、隣でスヤスヤと眠るプルミエールを見て一瞬声を出しそうになる。なんと、少女が寝言で「ユリウス……ねぇ……エレノア……」と拙い発音を繰り返している。数時間前の宴で聞いた名前を、幼い頭で模索しているのかもしれない。その愛らしさに、ヌヴィエムは小さく噴き出してしまう。かつて自分は復讐鬼のように生きてきたが、今はこんなにも穏やかな感情を知ることができるのだ。
「仲間たちとの再会……あなたにとってはまだ難しい言葉かもしれないけど、いつか理解できる日が来るわよ。わたしも、彼らがこうしてまた顔を見せてくれるなんて、戦場じゃ夢にも思わなかったもの……」
小さく囁き、毛布をかけ直す。砦の窓から淡い朝の光が射し込んでいた。ヌヴィエムはまたまぶたを閉じ、しばしのうたた寝を楽しむ。外からは遠く、荷馬車の音や兵士の掛け声が届いている。この世界が確かな安定に向かう足音のようにも感じられる。

朝が完全に訪れるころ、砦の広場にはすでに仲間たちの姿がちらほらと見受けられる。ネーベルスタン将軍は兵士相手にちょっとした槍の稽古をつけているし、火術師は魔術兵と共に食事を取りながら雑談している。みんながあの恐怖の記憶を共有しつつ、いまは笑っていられる。
ヌヴィエムが眠い目をこすりながらも、プルミエールの手を引いて広場に姿を現すと、拍手が湧き起こる。仲間たちはすっかり彼女が赤ん坊を抱えている姿に慣れている。昔なら「女王のような威圧感」があったヌヴィエムだが、いまは「母親らしき慈愛」を漂わせているのだから、見ていて微笑ましいと評判だ。

ユリウスも少し遅れて登場し、エレノアと顔を見合わせながら照れ笑いを浮かべる。その様子に、幻術師がからかい混じりの口調で「おや、そっちは相変わらず?」と言うと、ユリウスは「もうやめてくれ……」と頬を染める。
ネーベルスタン将軍はその光景を腕組みしながら眺め、「いいではないか。これこそ平和の証さ。まさかエレノアが年下の弟を好きになるとは想像もしていなかったが、戦場の巡り合わせは何でも起こるものだな」と意地悪く冗談を言い、エレノアが顔を赤らめるという一幕も。その一つひとつが、かつては考えられなかった安寧の風景と言えた。

皆が再会を喜び合い、あちらこちらで笑いと抱擁が生まれる。かつての死に物狂いの激戦を思えば、なんと豊かな時間なのだろう。戦闘に関する話題が出るとすれば、“あのときは怖かったな”“どうやって生き延びたんだ?”という酒の肴程度であり、もう血を噴き出すような恐怖は残っていない。
砦の風が柔らかく広場を吹き抜け、朝陽が皆の背を染める。ヌヴィエムはその背にいるプルミエールを抱き上げ、「ほら、あの人たちが昔のお友達なのよ」と教えてやると、子どもは人見知りながらも興味深げに彼らを見つめている。もしかすると、この子が成長して術や体術の才能を開花させれば、いつかまた彼らの活躍をまぶしそうに感じる日が来るかもしれない。

「ヌヴィエム、集まってくれた仲間たちには何か声をかけるの?」
エレノアが隣で問いかける。ヌヴィエムは首を振り、「ううん、もう言うことはないわ。あたしは退位したし、彼らは自由な戦友だから。勝手にこの国を回りながら、分散治世の恩恵を感じてくれればいいし、また困ったら寄ってくれるでしょう。あたしはいつでも歓迎するわ」
エレノアは微笑し、「ふふ、あなたも達観しちゃったのね。でも、それだけ皆と深い信頼を築いた証拠だわ。こうして‘仲間との再会’が喜びだけで済むなんて、昔は考えられなかったでしょう」と言う。ヌヴィエムは感慨深そうに、「ほんとに、あたしたち、あのときは必死すぎて……ただ血塗れの世界を駆け回っていたな」と頷く。


昼下がり、祝福の雰囲気が一段落すると、仲間たちはそれぞれの事情に合わせて再び旅立つ準備をし始める者もいる。ネーベルスタン将軍は数日だけ滞在すると言い、火術師や幻術師の一部は砦でしばし休息し、分散治世の会議に顔を出すという。こうして自由に動けるのが、いまの世界の良さだろう。

ヌヴィエムは砦の門でひとりひとりと挨拶を交わしながら、「また会いましょう」と言うのを繰り返していた。
「おまえはもう女王じゃないんだってな。まあ、分かるよ。おれたち、あんたが王座に座る絵なんか想像できないもん。どちらかといえば馬に乗って歌いながら指揮するイメージだ」
火術師がニヤリと笑う。ヌヴィエムも「そういうこと」と肩をすくめる。それを隣で見ていたユリウスが、「確かに姉上のイメージは戦場でしょ」と頭を抱えて笑い、エレノアが「でも今は母親よね」とちゃちゃを入れ、全員が吹き出す。砦の門前が一気に温かい空気に包まれた。

最後にネーベルスタン将軍が人払いをするかのようにヌヴィエムへ近づき、声を潜める。「ヌヴィエム、おまえに伝えておきたいことがある。もし今後、また世界が火の粉を浴びるような事態になったら、そのときは……俺も協力は惜しまん。おまえが退位したからといって、完全に責任を降りられるとは思うな。分散治世の理想を壊す敵が現れたら、再び剣を取る覚悟もいるだろう」
ヌヴィエムは静かに頷く。「ええ、わかってる。あたしは剣を捨てたわけじゃないし、ユリウスやエレノアもいる。でも、なるべくなら戦わずに済む方法を最後まで模索したい。それがあたしのスタンス」
将軍は「フン」と鼻を鳴らしつつも、その目にはうっすらとした優しさが宿っている。「それでいい。おまえがそう言うなら、俺も付き合う。お前たちのために残った寿命を使ってやるさ……」とつぶやくと、馬にまたがり、また会おうと合図をして砦を後にした。

こうして、一人ひとりが散っていくが、砦の空気はまるで祝祭のあとに残る余韻のように甘い。ヌヴィエムは見送る人々と抱き合い、手を振り、何度も「また会おう」と繰り返す。帰ってくる日は定かではないが、この世界がつながっている限り、いつでも再会できるという自信がみんなにあるのだ。


夕暮れ時、静かになった広場の真ん中で、ヌヴィエムはふと立ち止まる。一日の再会を終え、名残の焚き火の煙が細く宙に昇っている。
「仲間たち……変わらない部分もあるし、それぞれが成長してるところもあるわね。みんな、ほんとに自由に生きてる」
エレノアがローブを翻しながら彼女の隣に来る。「そうね。けど、最初にそうさせたのはあなたよ。退位までして、自分よりみんなの可能性を信じたんだから。感謝されるのも当たり前だわ」
ヌヴィエムは自嘲するように小さく笑い、「そりゃあ分散治世が成り立たなかったら何もかも失敗に終わってたけど、みんながこうして生き残り、帰ってきてくれて嬉しい。あの大量の流血が無駄じゃなかったって思えるから」と呟く。

奥からユリウスがプルミエールの手を引いてやって来る。「姉上、そろそろ部屋に戻る? プルミエールが眠そうだ」
見ると、赤い髪をした少女がこくこくと居眠りしそうになりながら、ユリウスの袖を掴んでいる。ここ数日、人混みに付き合わされ、仲間の出入りに驚いたり喜んだりして興奮し、さすがに疲れたのだろう。
「あら、あなた頑張ったわね。じゃあ行きましょうか。エレノア、あなたは……?」
「私はあと少し、星でも見て心を落ち着かせるわ。ユリウス、後で部屋に行くから……ごほん、何でもないわ」
最後は恥ずかしそうに視線をそらしてみせるエレノアに、ユリウスが半ば呆れたような困惑を浮かべるが、ヌヴィエムはそんな二人を微笑ましく見守る。そして小さく手を振り、プルミエールを抱きかかえて歩き出す。

砦の夜気が重たくなくなったのは、きっと彼女たちが大きな戦いを終え、仲間たちが繋がっていると感じられるからだろう。あのエッグ軍との死闘の日々、人々が孤立し、生き残るだけでも精一杯だった頃とは違う。分散治世を標榜する世界で、仲間と再会し、互いの存在を祝福できる――その実感こそ、最も尊い宝なのだとヌヴィエムは思う。


夜が深まり、プルミエールを寝かしつけたヌヴィエムは、かつての戦友たちを思い浮かべていた。ほんの一瞬しか会えなかった者もいる。長々と昔話をしていた者もいる。重たい傷を抱えながら笑っていた者もいる。みんな、今は闇の世界にいた当時の悲壮感など微塵も感じさせずに、生き生きと自分の道を進もうとしている。
「あたしは、本当に……これでよかったんだよね」
自然とつぶやく。退位という形で荷を下ろした彼女が、今ここにいて仲間たちと再会し、家族と過ごす。血を洗い流したあとの静かな夜。分散治世を支える仲間がいる限り、この道はもう戻れないが、それでいい。そして、いつかまた何かが起きたら、必ず彼らは集合するだろう。信頼がそこにあるからこそ、いまは離れていても心は繋がっている。

扉の向こうで小さな足音が聞こえる。ユリウスかと思えば、エレノアの軽やかなステップかもしれない。いずれにしても、仲間であり家族である彼らがすぐ近くにいることが、ヌヴィエムには何よりの幸せだった。かつて孤独に復讐心を燃やしていた頃とはまるで違う。
外の夜空には星が無数にまたたき、かすかに風がカーテンを揺らす。砦は一日で最も静かな時間を迎えているが、まるでこの世界全体が仲間たちの再会を祝福しているように感じられた。激闘と血の歴史を超えて、こうして笑い合える絆を得られたこと――それがヌヴィエムにとって、何よりも美しい“勝利”なのだ。

彼女はそっと窓を閉じ、プルミエールの寝息を確認すると、自分の寝床に腰を下ろす。遠くから、火術師が酒に酔って騒ぐらしい声や、将軍が語る低く落ち着いた声が聞こえてくる。そのすべてが懐かしく、愛おしい。
「……ありがとう、みんな。再び巡り会えたその事実を、あたしは一生誇りに思うわ」
ふと心のなかで呟き、瞼を閉じる。戦争の音が消え、血の匂いもないこの夜、仲間たちがまた各地へ散る前に、この砦で共に笑い過ごせるのは奇跡のようにも思える。だがそれが現実となり、今ここにある。それこそが分散治世を乗り越えた報酬であり、エッグを砕いたあの凄絶な戦いを経た者たちの帰還にほかならない。
そんな感謝を胸に抱きながら、ヌヴィエムは静かに眠りにつく。いつか再び何かが起きても、彼らは必ず集まる。仲間とは、そういうものだと彼女もようやく知ったのだから。砦の闇は深く優しく、彼女たちを包み込んでいる。夜が明ければ、また新しい日が始まり、仲間たちは笑顔で挨拶し合うだろう――戦うためではなく、ただ再会を喜ぶために。

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