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天蓋の欠片EP10-3
Episode 10-3:ユキノの拒絶
長く降り続いた雨は明け方に上がり、外の景色はしっとりと霞んでいる。タスクフォースの医療施設の一室で、ユキノは薄い痛み止めの効き目を感じながらベッドに背を預けていた。
横にはカエデが付き添い、椅子に腰掛けたまま居眠りしている。夜通しユキノの傍についていてくれたのだろう。その姿が愛おしくも申し訳ない気持ちをユキノの胸に呼び起こす。
「……カエデさん、ごめんね、いつも心配ばかりかけて……」
声を出すと喉が少し痛む。深呼吸してみても胸の奥に鈍い痛みが残り、身体が本調子には程遠いことを痛感する。しかし、昨夜までよりは幾分か軽い――蒔苗の干渉と“心の鍛錬”が一歩進んだ証かもしれない。
思考が巡る中、部屋の外から足音が近づき、ドアが静かに開く。姿を現したのは探偵エリスとタスクフォースのアヤカだ。
「ユキノ、調子はどう? 少しは寝られた?」エリスが声をかけると、ユキノは眉を寄せつつ苦笑する。「うん、だいぶ……カエデさんがずっといてくれて寝れたよ。痛みはまだあるけど、動けないほどじゃないかな」
アヤカはホッとした表情を浮かべ、「よかった……でも、無理はしないで。こちらはまだ真理追求の徒の動きが掴みきれない状態。あなたには無理させたくないし……」と声を落とす。
ユキノはそれを聞いて微かに歯がゆい思いを抱く。自分だけが“無理しないで”と言われ、何もできずにここに寝ているのは耐えがたい。世界は今も危険にさらされているというのに。
やがて、カエデが目を覚まし、薄暗い瞳で「あ、エリスさんとアヤカさん……おはよう」と挨拶する。三人が小声で言葉を交わす横で、ユキノは思考を巡らせていた。
蒔苗の“提案”――それは「ユキノが痛みをさらに克服し、“心の完成”を果たすならば、蒔苗は世界を終了しないし、真理追求の徒から力を奪われるのも防ぐかもしれない」というもの。けれども、ユキノはその過程で、蒔苗の干渉を何度も受け、“自分の弱さ”と向き合ってきた。
(でも……それって、本当にわたしが望んでる道なのかな?)
ふと疑問が胸をよぎる。自分の意志で世界を守りたいという気持ちは本物だし、痛みを超えてもっと強くなりたいとも思う。だが、蒔苗という圧倒的存在に頼る形で、世界を守ってしまっていいのか――自分が“心の完成”とやらを果たす代わりに、蒔苗が“終了”をやめてくれる。まるで人質を取られているようで、それ自体に抵抗感が湧くのだ。
(蒔苗が世界をリセットする権利なんて、どこにもないはず……もし彼女がやめてくれるなら、嬉しいけど、それって本当に正しいの? わたしはただ、仲間とこの世界を守りたいだけなのに……)
そのとき、アヤカの携帯に緊急連絡が入り、緊張した面持ちで受け答えする。「――ええ、分かりました。今すぐ向かいます。……はい、ユキノさんについてはまだ回復していませんが……え? 承知です」
通話を切ったアヤカは険しい顔でエリスとカエデを見渡し、「どうやら“外部解放術式”に関する情報が動いたみたい。上層部からも出動命令が来たわ。真理追求の徒の拠点らしき場所を突き止めたそうよ」と声を落とす。
「拠点を……? じゃあ私たちも行くしかないわね」エリスが即座に反応するが、アヤカは困惑気味に続ける。「でも、上層部が今度は正式な部隊を派遣するって言ってるの。私も同行するけど……スパイが絡んでる恐れがあるし、大部隊の動きはどうにも信用できない。結局また大惨事になるかもしれない。どうすればいい?」
ユキノは息をのんで「わたしも行く……!」と口にするが、カエデが反射的に「だめ! あなたはまだ動けない!」と制止する。アヤカも「実際、医師の許可が下りないわ。現場は危険すぎる」と難色を示す。
しかしユキノは強く首を横に振って「こうしてる間に、真理追求の徒が新しい儀式を完成させたらどうするの? 蒔苗を呼び出して世界を壊すかもしれない……わたしが行かないと!」と詰め寄る。
身体を起こそうとしたユキノは、再び痛みで「うっ……!」と息を呑み、崩れ落ちそうになる。エリスが慌てて支え、「ほら、見なさい。こんな状態で戦場へ行ったら即死よ……!」と叱る。カエデも不安げに額を押さえ、「あなたは無茶を繰り返して、もう何度死にかけてるか分からないのに……!」と叫ぶ。
そこに蒔苗がひっそりと現れる。相変わらず部屋のセキュリティを軽々と抜けてきたのだろう。彼女は虹色の瞳でユキノたちを見下ろし、静かに呟く。「ならば“心の完成”に至れば、痛みをコントロールできるかもしれない。今のあなたはまだ不十分」
「蒔苗……」エリスが苛立った口調で迎えるが、蒔苗は淡々と続ける。「もしあなた(ユキノ)が覚悟を決められないなら、私があなたに手を貸すのをやめてもいいのよ。私としては、このまま真理追求の徒の計画を観測しても退屈じゃないし、世界が壊れるならそれも一つの結末」
唐突な言い方に、ユキノは歯を食いしばる。だが心の中に、どこかで**“拒絶したい”**という気持ちが湧き上がってくる。蒔苗は世界の命運を握り、ユキノの限界を試すばかり……そんな存在に頼るのは本当に正しいのか?
(わたしはただ、この世界をみんなと守りたいだけ……。でも、蒔苗がいないと防げないの? そんなの、違うよ……!)
部屋の空気が張り詰める。アヤカやエリス、カエデが蒔苗と対峙する形だが、相手は観測者。物理攻撃も通じないし、彼女が本気で“終了”を決めれば世界ごと終わる危険がある。
エリスは静かに息を吐き、「蒔苗、あなたが私たちの味方になるなら、情報を共有し合いながら真理追求の徒の計画を阻止できるでしょう。でも、あなたはそれを望んでいない。あなたはあくまで“観測者”として、ユキノを使うつもりなのよね?」と問いかける。
蒔苗は感情のない声で「使うというか、“観測を深める”と表現したいけど、似たようなものかしら」と軽く肯定する。周囲は息をのむ。
まるで人間をモルモットのように扱う態度――幾度となく見てきたが、改めて恐ろしく感じる。
カエデは怒りをこらえきれず、「あなたなんかにユキノを渡せない。世界がどうなるかなんて、あなたが決めることじゃない!」と声を張り上げるが、蒔苗は冷静だ。「決める決めないは、私の自由。あなたたちがどう動くかを見るのも、私の自由。それが観測者だから」
ユキノは痛みに耐えつつ、心の中で(本当にこのまま蒔苗に依存していいの?)という疑問が大きくなっていく。確かに、彼女の干渉で心の深層を見つめ直す手助けになったが、それは同時に蒔苗が“終了”をしないための取引にすぎない。
(わたしがもっと強くなることが、世界を救う手段かもしれない。けど、蒔苗がそれを観測して楽しんでいるだけなら、ただの道具だよね……わたしはそれが嫌だ。だって、大切な人たちを守るための力であって、観測者の娯楽じゃないんだから……!)
その思いが形を成して胸の奥で燃え上がる。
ユキノはここにきて初めて、蒔苗に対する“拒絶”の感情を強く意識する。
この観測者がいれば真理追求の徒を制圧できるかもしれないが、それは同時に蒔苗の気まぐれに世界が振り回される未来を意味する。
蒔苗はユキノに冷たい視線を向け、「あなた、心の完成にもう近いと思ったけれど、どうやら迷いが出ているわね。痛みをもっと抱え込む覚悟が足りないのかしら?」と皮肉げに問う。
ユキノはベッドを握りしめ、額に汗を滲ませながらもはっきり言い返す。「違う……わたしは痛みを抱えるのは構わない。でも、あなたに翻弄されるのは嫌なの……!」
その一言に部屋の空気が凍りつく。エリスもカエデも、アヤカでさえ言葉を失う。蒔苗の存在を否定することは、つまり彼女が“終了”を選ぶ可能性を高めるリスクをはらむのだから。
蒔苗は虹色の瞳でユキノを見下ろし、無表情のまま「翻弄される……? 何を言っているの?」と静かに切り返す。ユキノは震える声で続ける。
「あなたは世界を壊すかもしれないし、わたしたちの努力を観測して“面白い”って言うだけ……。その気まぐれに依存してしまう自分が嫌なの。世界を守りたいのに、あなたに頼るのは本当に正しいこと? わたしには分からなくなった……!」
蒔苗の瞳が一瞬だけ揺れ、「ならばやめれば?」と突き放す。ユキノは息を詰まらせながらも言う。「やめるわけにはいかない……世界を救いたい。でも、あなたには頼りたくない。力を貸してほしいって思ってたけど、そうじゃない。わたし、あなたから離れて、わたしだけのやり方で頑張りたい……!」
その言葉は、観測者への決定的な“拒絶”――どれほど強大な力を持つ相手だろうと、自分たちの運命を握らせたくないという強烈な意志が込められていた。エリスやカエデ、アヤカも衝撃で息を呑む。
蒔苗は完全に無表情のまま黙っていたが、虹色の瞳がわずかにかすかに揺らぐ。彼女は人間に拒絶されるなど想定外だったのかもしれない。
「あなたが私を拒否するというの? それは、私がこの世界を終了することを止められないのに……?」
ユキノは強い眼差しで「そう。わたしはあなたを恐れてる。でも、あなたに依存して世界を救うなんて、間違ってると思う。わたしは自分の意志で戦いたいし、あなたに世界を壊す権利なんかない!」と啖然と言いきる。
部屋の空気が再度凍りついた。カエデは「ユキノ……そこまで言ったら……」と慌てるが、ユキノは止まらない。「ごめん、蒔苗。あなたが力を貸してくれるのは嬉しいかもしれないけど、わたしはあなたに振り回されるのを拒否する。観測者の気まぐれで生き死にが決まるなんて、ごめんなんだよ……!」
蒔苗は微かなため息を漏らし、「そう……では、あなたの選択を尊重するわ」とだけ答える。しかし、その声には冷たい硬質さが混じっている。「それならもう私の干渉は不要ね。あなたが自力で痛みを克服できるか、楽しみに見てるけど……もし失敗すれば、そのとき私は“終了”を下すわ。それだけよ」
言い放つと、虹色の瞳がほんの瞬きひとつで感情を消し去り、蒔苗はひらりと姿を消す。空気が薄く振動するような感覚を残して彼女は去り、病室には緊張の余韻が残る。
蒔苗が消えたあと、エリス、アヤカ、カエデ、そしてユキノがその場に沈黙を落とす。カエデが口を開く。「ユキノ……本当にいいの? 蒔苗を拒絶したら、彼女が本気で世界を壊すかもしれない。あなたの身体も、蒔苗の干渉で痛みを緩和できるはずだったのに……」
ユキノは肩を小刻みに震わせ、「分かってる。でも……。わたし、蒔苗に頼って“痛みを克服する”なんて、もう嫌なの。観測者が世界を壊さないために、わたしが身を捧げるような形になるのは……本当に違うと思うんだ……!」と涙をこぼす。
エリスは複雑そうに「気持ちは分かる。確かに蒔苗が気まぐれすぎて、命を賭してるのに相手は観測して楽しんでいる……そんな構図はあまりにも酷い」と嘆く。一方、アヤカは唇を噛みながら「でも、世界の命運が……」と漏らすが、ユキノは目を閉じて首を横に振る。
「わたしだって世界を救いたい。でも、それはわたし自身の力と、わたしの仲間たちの力でやりたい。蒔苗に負けないくらい強くなって、彼女に頼らなくても儀式を止められるように。もしその結果、世界が終わるというなら、それまでだったってことだよ……」
「それまでって……あなた、自己否定はやめるって言ってたじゃない」とカエデが涙声で指摘すると、ユキノは弱々しく苦笑する。「うん、わたしはもう自分を否定しない。でも、蒔苗に依存する生き方もわたしの望む道じゃない……」
こうして、ユキノは蒔苗を“拒絶”する形で、自力で痛みを克服し、真理追求の徒の新たな計画を阻止する道を歩むことを選んだ。
誰もがその覚悟の大きさに圧倒されながらも、どう手伝えばいいのか分からず、戸惑いの表情を隠せない。
そんな中、タスクフォースの本部では、再び真理追求の徒の動きが活発化している報告が入り、上層部が正式な部隊を派遣することを決定。アヤカやエリスも参加する形となるが、スパイの存在がいまだに特定できないため、全面的な情報共有にはリスクがある。
「敵は“外部解放術式”とやらを完成させる前に叩かないと……でも、この大部隊が動いたら、また情報が漏れるかもしれない」
アヤカは焦りをこらえながら、限られた信頼できる部下に追加の指示を出す。エリスも独自に情報屋から補完的なデータを得て、敵の潜伏先が市郊外の旧公園跡付近である可能性を高める。だが、上層部には「全域捜索」という大雑把な命令が下っており、適切な奇襲を行うにはロスが大きい。
一方、ユキノは病室で過ごしながらも、「もう行くしかない……」と思い詰めていた。カエデが「あなた、動けるの?」と不安げに尋ねるが、ユキノは力強く頷く。「痛いけど立てる。蒔苗を拒絶した今、わたしはもう自分で克服しなきゃ。大丈夫……きっとできるよ」
夜が近づく。タスクフォースの大型車両が続々と出動を始め、上層部の幹部たちが派手に動く中、アヤカとエリスは「今度こそ大規模な衝突になるわね……」と緊張感を深める。スパイが動くかもしれない。真理追求の徒が待ち構えているかもしれない。蒔苗はもはやこちらに干渉する気がないのか、姿を見せない。
ユキノはカエデの肩を借りて医療施設の廊下を歩く。医師たちが止めるが、本人の強い意志に加え、アヤカとエリスの計らいもあり、最小限の診断を受けたうえで外出許可が(事実上)出された形だ。
「動けるのね……本当に。大した根性だわ」とエリスが呆れつつも感心する。ユキノは苦笑いして、「蒔苗に頼らず痛みを抑えるのは難しいけど、こうして立っていられるだけでも……自分を少し好きになれるかも」と言う。カエデはその隣で懸命に支えながら、「絶対無理しないでよ……」と涙目で繰り返す。
そして、夜半。タスクフォースの出動を横目に、アヤカたちは信用できる少数隊員とエリス、ユキノ、カエデが別ルートで現地へ向かう準備を進める。上層部の大部隊はおとりにする形かもしれないし、スパイを逆手に取って偽情報を流す戦術かもしれない――詳細はアヤカしか把握していないが、いずれもリスクが高い。
出発直前、ユキノはエリスの前で深呼吸し、「痛いけど……動けないほどじゃない。先生、わたし……蒔苗を拒絶したけど、後悔してない。これがわたしの本心だから。自分の足で世界を守りたい。大切な人たちと一緒に……」と宣言する。
エリスは静かに微笑み、「分かってる。その決意はあなたの強さよ。蒔苗に頼りたくないのも分かる。でも、本当に大丈夫? また死ぬほどの痛みを味わうかもしれないわ」と不安を隠せない。
「いいの……その覚悟はできてる。蒔苗が“終了”を選ぶよりは、わたしが痛みに倒れるほうがマシだから」とユキノは明確に言い切る。カエデも瞳を潤ませ、「わたしもあなたと共に行く。もし限界が来たら、今度はわたしがあなたを守るんだから……!」と力を込める。
こうして、**“ユキノの拒絶”**は彼女に新たな覚悟をもたらした。観測者・蒔苗に依存せず、痛みを自らの力で克服する道を選ぶ。その先に待ち受けるのはさらなる苦難だろうし、真理追求の徒の計画が成功すれば世界は危機に瀕する。だが、彼女はそれを自力で食い止めると誓ったのだ。
(もし蒔苗が見限って世界を終わらせるとしても……わたしは逃げない。自分の足で最後まで戦うんだ)