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天蓋の欠片EP7-3
Episode 7-3:蒔苗の冷静な観察
高層ビルの屋上、ひんやりとした風が夜の街並みをなでている。頭上には星がちらほら見えるものの、街のネオンがまばゆく目を刺激する。
そのビルの手すりの向こう側――恐ろしいほどの高さ――に、煤織蒔苗(ススオリ マキナ)は立っている。プラチナブロンドの髪がわずかに揺れ、虹色の瞳が眼下の街を眺めていた。周囲に人影はないかのように思えるが、実際はタスクフォースのパトロールがビルの下を車で走り回り、真理追求の徒の潜伏が噂される区域には警戒が敷かれている。
蒔苗は人間の存在から大きくかけ離れた、0次宇宙の“観測者”だと言われている。だが、彼女自身がなぜこの世界を歩き、ユキノたちを見守るのか、はっきり語られたことはない。
彼女の瞳には、まるで別次元の情報が映り込んでいるかのように、ビルのひとつひとつ、通りを行き交う車や人の輪郭が鮮明に捉えられている。「隠れた観測」と呼ばれる行為――蒔苗はほとんど姿を現さず、しかし確実にユキノやカエデ、そして真理追求の徒の動向を把握し続けている。
「今夜も……動いてるわね」
小さく呟いた声は風にかき消され、誰の耳にも届かない。蒔苗はビルの縁へ片足を乗せ、まるで宙に浮くような軽やかさで身を乗り出す。どこか人形のように無表情だったが、虹色の瞳にわずかな光がともる。
「ユキノは、痛みに耐えて成長し始めてる。カエデも、それに触発されて人間らしさを取り戻しつつある。……でも、あまり長く観測を続けると、私は干渉しすぎてしまうかもしれないわね……」
その呟きに、感情の起伏は見られない――あくまで客観的な分析に近い。しかし、その声の奥底にはかすかな葛藤がにじむ。蒔苗が本当にただの無感情な存在であれば、こんなに長く地上の人々を観察し続ける理由はないだろう。
風が吹き、夜の闇がビルの谷間を走る。蒔苗は目を細め、遠くのほうにある学校の屋上をちらりと見つめる。そこがユキノたちの学び舎――何度も襲撃を受けた場所――であることを知っている。**もし真理追求の徒が彼女たちに害をなすなら、どうする? 観測者として見過ごすか、それとも介入するか。**蒔苗の思考は揺らぎを見せる。
「……観測者が加担するわけにはいかない。私はあくまで、この世界の行方を見届けるだけ」
そう呟き、微かに瞼を伏せる。その背中には、静かな覚悟と、わずかな迷いが同居する。蒔苗の冷静な観察は、まだ終わらない――むしろこれからが本番と言えるのかもしれない。
翌朝、学校ではまた警戒態勢が続いていたが、ユキノとカエデはすっかりそれに慣れつつある。昇降口で顔を合わせ、「おはよう」と穏やかに挨拶を交わし、クラスメイトたちの視線を軽く受け流すのも、日常の一部になっていた。
ホームルームが始まる前、ナナミが「ねえ、カエデちゃん、朝練しない?」と冗談めかして言うが、カエデは苦笑いを返す。「朝練……私は運動部じゃないし……」と。ユキノも笑い、「私たちの場合、朝練じゃなくて“痛い訓練”になっちゃうけどね」と軽口を叩くと、クラスメイトたちが「いやいや、危ないから」と笑い合う。
そんな緩い雰囲気も束の間、廊下から聞こえてくる足音が殺気立っているのを感じ、クラスの空気がすっと張りつめる。タスクフォースの隊員たちが走り回っている様子が窓越しに見え、「また何かあったの?」と嫌な胸騒ぎが広がる。
ユキノは教室の後ろへ回り、扉を開けて廊下を覗く。「すみません、何か事件ですか?」と声をかけると、一人の隊員が「いえ、まだ状況確認中ですが、真理追求の徒が近隣で不審者情報が……」と苦々しげに答えた。
カエデも不安そうに立ち上がって、「また……しつこいわね」と呟く。ホームルームの開始まで、クラスメイトたちが動揺しているのが分かり、担任も「落ち着け、まだ確認中だ」となだめる。ユキノとカエデは互いに視線を合わせ、(また戦闘になるのかな……)と少し構えつつも、できるだけ平穏であるよう祈る。
その頃、校舎の屋上で、誰にも気づかれぬまま蒔苗が姿を見せていた。屋上の片隅に腰かけるようにして腰を下ろし、靴を揃えて隣に置き、フェンスの向こうに広がる景色をぼんやり眺めている。
遠くでタスクフォースの動きが活発化しているが、蒔苗にはそれがどうでもいいことのように思える。彼女はただ、ユキノやカエデがどこにいるかを認識し、真理追求の徒の活動を掴んでいる。もし本気で彼らが襲撃をかければ、この屋上からそれを見下ろす形で把握できるだろう。
「ユキノ……今日も少しだけ強くなったのね」
低く囁いた声には、不思議な温かさがにじむ。あくまで冷静な観測者のはずなのに、“成長”を喜ぶかのような響きが混じっている。まるで人間のような感情を抱きはじめているかもしれない――しかし蒔苗自身、その事実に戸惑っているふうでもある。
「カエデも、心を開きつつあるわね。お互いに助け合っている……。それがこの世界の“共有”というもの? 私には理解しきれない」
蒔苗は空を仰ぎ、雲の切れ間を見つめる。人間同士が痛みや苦しみを共有し、そこから絆を育む――観測対象としては興味深い。だが、もしそれが蒔苗の望まない方向に進むなら、彼女が持つ“観測終了”という最終手段を行使する可能性もある。
(まだ、時期ではないわね……。彼女たちがどう選ぶか、もう少し見てみたい)
そう思考しながら、蒔苗は気配を消して床に座り込み、校舎の様子を静かに見つめ続ける。まるで風景の一部のように、存在感を希薄にして――それが蒔苗の冷静な観察であり、誰にも気づかれない孤独な行為である。
午前の授業が終わり、教室に昼休みが訪れる。ユキノとカエデは、ナナミを含めた数人と簡単に雑談を楽しんでいたが、タスクフォースの動向が気になって仕方ない。護衛に尋ねても、「まだ詳細は分からない」との返事。
そんな空気のなか、カエデはユキノの袖を引っ張り、「ちょっと屋上へ行かない?」と控えめな声で言う。ユキノは「うん、いいよ」と答え、ナナミらには「ちょっと二人で話すね」と伝えてから廊下へ出た。
屋上へ続く階段を上りながら、カエデは何か言いかけるように唇を動かすが、言葉にならないようだ。ユキノは心配そうに「どうしたの?」と問いかける。
階段を抜けて屋上のドアを開けると、そこは薄く雲のかかった青空――蒔苗の姿はもちろん見当たらない(実際は気配を消しているが、二人には気づかれない)。強い風が吹き、髪が乱れる。
「……あのさ、ユキノ。私、あなたみたいに痛みを受け止めて強くなるってことを試してみようと思うの」
カエデが重い口を開く。「今までは、研究施設で植え付けられた“制御”の方法しか知らなかった。でも、それって心を殺すようなやり方で……あまりに苦しかった。あなたがやってる“痛みを受け入れる”って方法なら、もっと自由になれるかもしれない」
ユキノは目を丸くする。「わ、わたしもまだ模索中だし……簡単じゃないよ。痛いのは相変わらずだし、実戦で崩れかけるときもある。でも、先生が言うには“心の安定”が鍵だって」
「そう。それなら、私もあなたの先生のところへ行ってみる。……エリスさんに教えてもらえれば、何か変われるかもしれない。タスクフォースには抵抗あるけど、エリスさんなら信じていいかなって思い始めたの」
カエデの決意が伝わってきて、ユキノは胸が温かくなる。自分だけが成長するのではなく、カエデも“生成者”として次のステージを目指すのだ。そして二人が連携し、真理追求の徒の攻撃をより効率的に跳ね返す――そんな未来が見えてくる。
「わかった。先生に相談してみるね、きっと喜んでくれる。痛いのはしんどいけど、一緒に乗り越えよ?」
「ああ……うん」
二人がしっかりと手を握り合う。その瞬間、屋上の隅で空気が僅かに揺らめく。蒔苗はそこにいた――だが、二人は気づかない。蒔苗は自分の髪をなでつつ、虹色の瞳で静かに彼女たちを観察し、「いい顔をするわね」とささやく。それは人間的な感情なのか、ただの観察記録なのか――境界はあいまいだ。
昼休みが終わり、午後の授業へ移るころ、突然校内放送が緊迫した声で告げる。「……緊急事態です。校舎裏門付近で不審者が確認され、生徒数名が人質に取られたとの報告がありました。皆さんは安全な場所へ避難を……」
一気にクラスが騒然となる。「人質……?」「校舎裏? 嘘でしょ……!」生徒たちの悲鳴やどよめきが広がり、担任は即座に「落ち着け! 廊下に出るんじゃない!」と指示を飛ばす。だが、こうした事態に慣れてきた学生たちも少なくない――慣れが良いか悪いかは別として、手際よく身を隠す子もいれば、むしろ事態を確かめようと動く子もいる。
ユキノとカエデは顔を見合わせる。(また来た……こんなにも頻繁に)という絶望感が一瞬胸を締めつけるが、同時に「やるしかない」と体が熱くなるのを感じる。ナナミがすぐに駆け寄り、「また襲撃……私たち、教室から動かないほうがいいよね?」と声を震わせる。
「うん、ナナミは動かないで……カエデさんと私は、ちょっと校舎裏を見てくる」
ユキノが言うと、ナナミは「え、ダメだって……また危ないよ!」と引き止めようとする。しかし、ユキノは護衛の隊員がすぐに駆けつけてくれるのを期待しながらも、今何より大事なのは人質を救うことだと確信している。「大丈夫、私とカエデさんなら大丈夫だから」と微笑み、教室を飛び出した。
担任が「ユキノ、ダメだ!」と叫んで止めようとするが、カエデと二人の足は速い。廊下を駆け、階段を下りる。すでに真理追求の徒とタスクフォースの隊員が裏門付近で対峙している気配がある。遠くのほうから警備員の怒声や「人質を放せ!」という叫びが聞こえ、校舎裏の窓から覗くと、外にローブ姿の男たちが3人、怯える生徒たちを人質に取り囲んでいるのが見える。
「くっ……また人質……卑劣な手段を……」
ユキノは歯を食いしばり、カエデも紫色のオーラをかすかに身に帯び始める。「どうするの……? 正面突破したら人質が危ない」
校舎の窓越しに見る限り、タスクフォースの狙撃手が狙える角度を確保できていないようだ。人質を前に盾としている男たちの配置が巧妙で、遠距離からの射撃はリスクが高い。
「私たちが出て、あいつらの注意を引く……そしたらタスクフォースが人質を救出する隙を作れるかも」
ユキノが提案すると、カエデは小さく頷く。「そうね。でも、万一、私たちが捕まったらどうする?」
「そうならないように、ちゃんと連携しよう。おとりになるのは苦しいけど……私たちならきっと上手くやれるよ」
二人で合意し、校舎裏の出口へ回り込む。息が詰まるような緊張感が漂う中、ユキノは射出機に手をかけながらドアを開け、ゆっくりと外へ足を踏み出す。男たちが人質の生徒数名に刃物らしきものを突きつけているのが見える――見るだけで胸が痛む光景だ。
「そこのあんたら! 動くな!」と男が鋭い声を放つが、ユキノは腕を上げてあえて目立つようにする。「わ、わたしたち、学校の生徒だけど……どうしてこんなことをするの……」とわざと弱々しい声を出す。
カエデも隣で力を抜いた姿勢を取り、「人質を解放して……! 罪のない人たちが怯えてる」と言葉を投げる。
男の一人が「お前らこそ、“生成者”じゃないのか? どこかで聞いたことがある……天野ユキノと日向カエデ……!」と口走る。どうやら既に名が知られているようだ。ローブの下からオーラが揺らめき、敵意をむき出しにしている。
(やっぱり、私たちの名前まで……もう逃げられないな……)
ユキノは心中で覚悟を決める。一方、カエデは小さく呼吸を整え、男たちの背後のタスクフォースをちらりと確認する。狙撃手が狙える位置を探っているが、人質を盾にされて射線が確保できないようだ。
(私たちが前に出て、彼らの意識を引きつけるしかない……)
「ねえ、どうしてこんなことをするの? あなたたちが追い求めてるのは“真理”なんでしょう? そんな方法で何かが得られるの?」
あえて時間を稼ぐために、ユキノは言葉を投げかける。男の顔には狂気に近い笑みが浮かび、「我々こそが“真のEM”を手に入れる! お前ら二人の力を絞り取り、蒔苗を封じる手がかりを得るのだ」と叫ぶ。男の後ろでは人質の生徒が怯えて涙を浮かべている。
「蒔苗……やっぱり、あの子を狙ってるんだね……。そんなことさせない……!」
ユキノの目がギラリと光る。カエデも足を半歩踏み出し、「人質を放しなさい……そうすれば、私たちが相手になってやるわ」と低い声で宣言する。
「ほう、取引でもする気か……? ならこっちまで来い。人質を離してやるかどうかは、お前ら次第だ……!」
男が嘲笑する。周囲ではタスクフォースの隊員が隙を狙っているが、まだ打って出られない。ユキノとカエデが互いの目を見て「行くしかない」と無言で意思疎通する。二人はゆっくりと前進し、男たちの間合いへ入っていく。
男たちが上手く配置を変え、人質の生徒を後方へずらす形で二人を囲もうとする。タイミングを見計らってタスクフォースが出てくる予定だが、それまでの数秒が勝負だ。ユキノとカエデは集中を高め、まるで視線だけで作戦を共有する。
(私がオーラを撃たれる前にカエデさんが一人を牽制し、私は弓でもう一人を狙う……。三人目はその隙にタスクフォースが人質を救ってくれるはず……)
一瞬の静寂が校舎裏に落ちる。男たちが「さあ、こっちへ来い。抵抗するなら、人質の首を落とすぞ」と脅すが、ユキノは首を振りながら半歩踏み込む。「そんなことさせない……」と呟き、胸に射出機を押し当てる。
胸を撃ち抜く痛みが電流のように身体を貫く。意識が飛びそうになるのをこらえ、**“痛みを受け入れる”**イメージを再度思い出す。唇からかすかなうめき声が漏れるが、今まで以上に落ち着いた気持ちで弓を形成――それを男は見逃さず、「そいつ、力を出すつもりか……!」と構える。
そのときカエデが駆け込む。紫の刃がひとりの男へ襲いかかり、人質を抱えている腕を目標に切りかかる。それを見た男が「くそっ……!」と焦り、咄嗟に人質を放してオーラをぶつけてくる。
カエデは刃でそれを弾くが、重い衝撃で体がのけぞる。しかし、狙い通り、人質の生徒を取り巻く拘束が緩んだことで、タスクフォースの隊員がサッと横合いから飛び出し、生徒を引き離すことに成功する。
「離れろ……!」男が激昂してオーラをさらに増幅させる。もう二人の男も反応し、一斉にカエデやタスクフォース隊員へ攻撃を仕掛けようとする――その瞬間、ユキノが弓を引き絞っていた。
「うあああ……!!」
痛みに耐えながら放った矢が唸りを上げ、オーラの塊を砕くように男の肩口を撃ち抜く。一人が吹き飛ばされ、もう一人が怯んで「なんだ、その力は……」と絶句する。その隙にカエデが再び紫の刃で懐へ飛び込み、オーラを叩き斬る形で一撃を加える。
「ぐっ……! 裏切り者め……!」
男がうめく。カエデは感情を表に出さず、ただ「あなたたちのやり方は間違ってる」と低く呟く。タスクフォース隊員が人質を安全な位置まで誘導したのを確認すると、今度は三人目の男が反撃しようと構え――しかし、そこへもう一人の隊員が襲いかかり、腕を掴んで地面へ押さえつける。
「制圧しました!」
短い報告の声が響き渡り、ユキノはようやく安堵の息を吐く。弓を解いて膝をつきそうになるところを、カエデがすぐに肩を支える形で助ける。
「はぁ、はぁ……痛い……でも、倒れない……!」
ユキノの額には汗がびっしょりだが、その瞳には確かな力が宿っている。先日の訓練が活きているのを実感する瞬間だ。「ごめん、ありがとう、カエデさん……」と微笑むと、カエデも「私こそ……あなたの矢がなかったら危なかった。助かったわ」と返し、ふたりはささやかな笑顔を交わす。
タスクフォースが男たちを拘束し、人質となった生徒たちを保護する。校内放送でも「事態は収束した」とアナウンスが流れ、教師たちもほっと胸を撫で下ろしている。
そんななか、ユキノとカエデは裏門の近くで立ち尽くし、痛む体を休ませつつ隊員の指示を待っていた。あたりに漂う焦げたような匂いは、オーラの衝撃が地面や空気を焦がした証拠だ。まるで煙のような冷たい風が髪を揺らす。
「また、こうして襲撃を防いだのね……」
カエデが小さく呟く。「あまり嬉しくないけど、誰も大きなケガをしなくて済んだのはよかった……」
ユキノも苦笑いで頷く。「そうだね……人質になった生徒さんたちが無事なのが何よりだよ」
そのとき、ふと背後のほうから気配を感じる。二人が振り向くと、そこには誰もいない――かと思いきや、ほんの一瞬だけ空気が歪んだように見え、薄い人影が浮かび上がる。蒔苗だ。
「蒔苗……!」
ユキノが息を呑む。いつ出てきたのか、どこに潜んでいたのか。彼女の白い肌とプラチナブロンドの髪が夕陽の中でかすかな輝きを放ち、虹色の瞳がユキノとカエデをじっと見つめる。
「あなたたち、また戦ったのね」
蒔苗はそっけなく言う。カエデが一歩身構えるが、ユキノは意外と落ち着いて「戦わずに済むならそうしたいよ……でも、人質を取られたら無視できない」と答える。
蒔苗は視線を外して地面の傷跡を見つめ、「なるほど。痛みを抱えつつ、よく耐えたわね……。カエデも、だいぶ動きが良くなったみたい」と評価するような調子を洩らす。その言葉に二人は戸惑う――この子はいったい何者なのか、本当に敵か味方かも分からないままだが、少なくとも攻撃してくる気配はない。
カエデが低く息を吐き、「あんたもしかして、ずっと見てたの?」と問いかける。蒔苗は一瞬瞳を伏せ、「私は“観測者”よ。あなたたちがどう行動するか、ずっと見ている。でも、干渉はしないわ」と言いきる。
ユキノは苦しい表情で「干渉しないって……もし私たちが負けてたらどうするつもりだったの?」と尋ねるが、蒋苗は静かに首を振る。「そのときは、その結果を受け止めるだけ。私は自分の意思で動くわけじゃないの」
(自分の意思じゃない……観測者としての立場か……)
ユキノとカエデが黙り込む。どこか空虚な言葉の裏に、蒔苗自身の揺れが感じられる気がするが、そこに感情が介在しているかは分からない。
「あなたたちが成長しているのは事実。どこまでいけるか、もう少し見てみるわ。もし観測を終了すべき時がきたら、そうするだけ」
蒔苗がさらりと恐ろしい宣言を落とす。校舎裏の風が吹き、まるで誰かが背筋を撫でるように冷たい。ユキノは口を動かそうとするが、何も言えない。観測終了――つまりこの世界ごと切り捨てるということなのだろうか。
「でも、いまはまだ……あなたたちが世界を変えるかもしれない。それを見届けたい。……頑張りなさい」
微妙に励ますような台詞を残し、蒔苗はふっと姿を消す。そもそもそこに確かにいたのかさえ疑問に思えるほど自然に消えてしまうのだから、二人にはどうしようもない。
「蒔苗……」
カエデが小さくその名前を呼ぶ。ユキノは唇を噛むが、「見られてたんだね、私たちの戦い」と頭をかく。再び視線を交わし合い、「そっか……干渉はしないって。なら私たちのやりたいようにするしかない」と結論づけるしかない。
その夕方、校舎が閉鎖され、短縮授業で生徒たちは早めに帰宅を促される。ユキノとカエデは襲撃を防いだことで、周囲からの視線が以前よりもはっきりと感謝や賞賛に変わっているのを感じる。「ありがとう」「命の恩人だよ」と泣きそうな顔でお礼を言う人質だった生徒の姿もあり、二人は少し恥ずかしい気持ちで笑う。
護衛の隊員が車を回してきて、「お疲れさまでした」と丁重に頭を下げる。ユキノは苦笑しながらカバンを抱え、「もう“お疲れさま”には慣れたかも……」と自嘲するが、カエデが「何度言われたって疲れるよ、実際」と肩をすくめる。そのやりとりが日常の一部になっていることに、二人は複雑な思いを抱きつつも、ほんの少し誇りを感じている。
――そして、廃ビルの屋上か、あるいは校舎の陰か、蒔苗が今も彼女たちを見つめていることを忘れられない。観測――その冷静な眼差しは、二人の友情をどこへ導くのか。蒔苗自身の決断がいつ下されるのか、誰にも分からない。
ユキノは車に乗り込み、ドアが閉まる瞬間、夕焼け空に目を向ける。そこにかすかに薄い人影があるようで、思わず目を凝らすが、視界がぶれて消えた。たぶん、蒔苗だろう――何かを言いたそうで言わない、そんな存在であるが、それもいつか明らかになるのかもしれない。
夜。ユキノは自室のベッドに横たわりながら、今日の戦いを思い返す。痛みは相変わらず尾を引いており、胸を押さえるたびに鈍い熱が走る。しかし、二射以上の連射にも挑みたいという気持ちが次第に強まっている。
カエデも自分の道を見つけつつある――“心を殺す”のではなく、“痛みを受け止める”方法を模索したいと決意したのだから。エリスもアヤカも、互いに対立しながらも協力への道を探っている。
スマホが震える。カエデから珍しくメッセージが届いたのだ。
カエデ: 「今日はありがとう。人質を救えたのはユキノのおかげ。私ももっと強くなるために、今度エリスさんに相談しようと思う。よろしくね」
ユキノはすぐに返信する。
ユキノ: 「こちらこそ、助かったよ。エリスさんは怖いとこあるけど、絶対役に立つはず! 一緒に頑張ろう。」
送信すると、胸の痛みが少し和らぐように感じる。「一緒に頑張れる仲間がいる」――それが心の支えになっているのだろう。友情の芽が確実に根付きつつある証拠だ。
こうして、ユキノやカエデは再びの襲撃を退け、クラスメイトとの関係も少しずつ上向きに変化している。 エリスとアヤカは相変わらずぎくしゃくしながらも協力し、真理追求の徒の企みを水際で防ぐ形が定着し始めていた。だが、この状況が長く続くわけではない――真理追求の徒も蒔苗への接触を図り、本格的な作戦を進めているという噂が絶えないのだ。
蒔苗の立場も揺れ動く。観測者としての使命なのか、それとも彼女自身の意思によるものなのか――人間界を眺め、ユキノたちの努力を見守りながら、いつか“観測を終了する”という最悪の決断を下す可能性は消えない。
だが、蒔苗はあくまで**「冷静な観察」**を続ける。その瞳に映るのは、痛みを超えようとするユキノの姿、孤独から連れ出されるカエデの姿、そして彼女たちを取り巻くクラスメイトや大人たちの喧噪――どこか人間らしいドラマが感じられて、蒔苗にとっては“珍しい世界”だろう。人間の紡ぐ物語に、興味があるのか、それとも嫌悪があるのか、彼女は口をつぐんで真意を語らない。
(こうして、真理追求の徒との衝突は当面のところ鎮静化し、学校には束の間の平穏が戻った。しかし、蒔苗が隠れた場所で冷静に全てを観察し続けている以上、“観測”がどこへ向かうかを決めるのは、まだ先の話。ユキノやカエデの成長が、観測者の心をどこまで揺さぶるのか――いずれ、その答えが明らかになるだろう。痛みを乗り越え、友情の芽が花を咲かせ始めた今、物語はさらに奥深い領域へ進んでいく。)