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母のレシピと君の肉じゃが

 キャンパスは山の斜面にある。
教養部C棟から北に下る石段を,私たちは稲妻階段と呼んでいた。
その九十九折りの階段を下りた先に学生アパート青嵐があった。
あちこちにある学生アパートについている「荘」の字がないのがなんとなく洒落ていた。
2階建てで各階に4畳半の部屋が8つずつあり,入居に男女の区別はなかった。
洒落た名前なのに,キッチン・バス・トイレは共有という,まるで前時代のようなアパートだが,それだけに家賃は安く,私のような貧乏学生には助かったのだ。

 その日,カレーを作るために玉葱を切っていると,君が通りかかった。

「梶田さん,自炊ですか」
「うん,学食でもいいんだけど,時々は自炊さ」
「それ,なんですか」
「これ? 母が書いてくれたレシピ。このカレーも市販のルウでなくて,玉葱をいためて作るんだ。」

 君はレシピを手に取ると
「へえ,手書きなんですね。字がきれい」
「そう? 普通だと思うけど」
「この肉じゃが,変わってますね」
「え? どこが」
「ふつう牛肉じゃないんですか」
「ああ,うちでは牛肉はめったに食べなかったし,僕が鶏が好きなんで」
貧乏だったから,とは言えなかった。
「うちも牛肉はめったに食べなくて。これ,おいしそう」
「じゃ,作ってみる? 貸してあげるよ」

 数日経って,コーラスの練習の帰りに,君から声をかけられた。

「あした,肉じゃが作ろうと思うんですけど,食べてみてもらえます?」
「え? いいよ,宮野さんの手料理なんていいなあ」
私は心にもなくお世辞を言ったあと,なんて軽薄な男なのかと自分を呪った。

 翌日,講義を終えて戻るとキッチンに君の姿があった。
「何か手伝おうか」
「じゃあ,じゃがいも切ってください。」
「ほかのおかずは?」
「鯵の干物ですけど。ここ,グリルとかないからフライパンで」
「味噌汁もあるといいなあ」
「じゃあ,たまねぎも薄く切ってください」
「え? たまねぎの味噌汁?」
「きらいですか」
「いや,うちでもよく食べたので」

肉じゃがにとりかかる。
「あれ? 宮野さん,計量スプーンは?」
「あ,いつも適当だから。梶田さんはレシピ通りにちゃんと量るんですね」
「うん,でも,なぜかちょっと味が違うんだよねえ・・」

料理ができあがると,君の部屋に持っていった。
初めて入る君の部屋。私の部屋の筋向かいだ。
おなじサークルにいながら,一度も入ったことはなかった。
女の子らしいピンクが主調のカーテン。

「あ,これ,カラス?」
「そうよ,私たちのあこがれだもん」
「モノクロ写真か。服が黒でほんとにカラスだね」
「でも,声は鳥のカラスとは比べ物にならないんだから」
「これ,ファントムじゃん」
「さすがね。梶田さん,クリスティーヌとの二重唱,歌えます?」
「もちろん。やろうか。・・・でもここで歌っちゃ,となりに迷惑かな」
「じゃあ,小さい声で」

君がクリスティーヌ,私がファントムで,ささやくような二重唱。
やがて2人とも笑い出した。
「これじゃぜんぜん気分出ないねえ」

「さあ,ご飯にしましょう。あ,お茶わんが一つしかないんだけど」
「じゃあ,持ってくるよ」

私は,自分の部屋に戻り,茶碗と皿を2つずつと自分の箸を持参した。

「あ,お茶わんはあるんだけど」
「これ,引っ越すときに買った夫婦茶わんなんだ。母がなんでも2つずつにしておきなさい,と言って」
「ふーん。まるでおままごとね」

鯵と肉じゃが,玉葱の味噌汁とご飯が食卓に並んだ。
まずは,肉じゃが。
え? この味・・・

「どう?」
「いや,おどろいた。母の肉じゃがと同じ味だ」
「よかった。おかあさんのレシピで作ったのに,まずいといわれたらどうしようかと思った」
「だって,宮野さん,ちゃんと量らなかったじゃん」
「うん。適当。だから2回目はないかもね」

∞∞∞∞∞∞

 桜の季節になり,私は30kmほど離れた町にエンジニアとして就職した。
時々はOBとして,混声合唱の部室に遊びに行き,君の部屋にも行った。
2度目はないと言った肉じゃがを食べに。

 桜の季節がまたやってきて,君は実家に戻り,小学校の教師になった。
私の住む町の2つ隣。
私は所属するアマチュアのコーラスグループに,君を誘った。
パートは離れているけれど,時々は若い人たちで飲み会。でも,私と君はごく普通の関係に見えたと思う。夜中に2時間近くも電話で話し込むようなふたりだったけれど。メールより,声を聞きながら話す方が断然いい。

 君が実家にいるので,肉じゃがを食べることはないと思っていたが,一度だけ,私のアパートに来て作ってくれたことがあった。そのときも干物と味噌汁。鯵ではなく,思い切ってキンメダイにしたのだけれど。
食後は2人でCDを聴いたり,DVDを見たり。
しかし,部屋でも,送り迎えの車の中でも,君の手にさえも触れることはなかった。大事にしてきたものを壊しそうで。

 そんなふうにして紅葉が過ぎ,桜が過ぎ,また紅葉が過ぎた。
風花の舞うあの夜。
思い切って携帯電話を手にした。
「来年から一緒に暮らさない?」
君は黙ったままだった。
なんとなく気まずくなって,「じゃあね」と電話を切った。
3日後,郵便受けに白い封筒が入っていた。
中には小さなカードが1枚。
メッセージは2行だけ。

   ごめんなさい。
   私は悪い女です。

3ヶ月後に桜が咲いた日。君の名字が変わった。

∞∞∞∞∞∞

 今でも君とはコーラスグループで顔を合わせる。
以前とまったく同じように。
しかし,夜中の電話も,メールも今はない。

 今日,肉じゃがを食べたくて材料を買ってきた。
母のレシピは引っ越しの時にどこかに紛れてしまった。
記憶を頼りに,じゃがいもを切り,人参を切った。
調味料の分量を忘れたわけではないが,計量スプーンを使わずに味付けをした。

一口,二口。
味のしない肉じゃがを,ポソポソと食べた。
これじゃない。食べたかったのは,母の・・・ いや,君の・・・


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こちらの企画。

自分の領分ではないとずっと思っていたけれど,また,カエデライターに火をつけられた。

とはいえ,天の邪鬼派なので,みんなと方向性は違う。企画の意図にあってなくても,まあそういうことだから。
実話だし。(ウソウソ 茶々入れに決まってる)
え? さだまさしの歳時記のパクリだろうって?

まあ,いいでしょう。


イラストは イラストACから THさん,acworks さん