幻想劇場、ただいま改装中。
小学生のころ、毎日の通学は徒歩50分。
しかも片道、である。
当時のわたしにとっては、あたり前だったが、大人になってからその話をすると、おどろかれる率はかなり高い。
通学路は、ほぼ田んぼ道で、まわりに家など1軒もない。
いまでこそ、変質者がいて物騒だとか、あぶないとか言われてバスでの通学に変わっているが、当時はおかまいなし。
飛ぶ虫を追いかけたり、道端の水路に浸かったり。
かなり自由に、のびのびと、その50分を楽しんでいたように思う。
そんな、学校からの帰り道。
わたしは、よく野良犬に遭遇した。
これも、今ではめったに見なくなった光景である。
そんな時のわたしは、硬直。
怖くて動けなくて、かなりの長時間、その野良犬がどこかへ去るのをじっと待っていた。
道が開けたとたん、猛ダッシュで通り過ぎる。
そんなちいさなドラマを、ときどきくりひろげながら、ひとり学校から帰っていた。
ある日、いつも通りの学校からの帰り道。
また、例の野良犬遭遇事件が勃発。
その日は、雨が降っていた。
ちいさな、きいろい傘をさしたわたしは、帰り道の先の遠くの方に、雨にぬれながらうずくまっている犬を発見。
また、硬直するわたし。
怖い。
しかし、ここを通らなければ、家には帰ることはできない。
やっぱり、怖い。
しばらくたっても、その犬は動く気配はない。
同じように、わたしもその場にうずくまって、とにかく待つ。
しかし、いくら待っても、その犬は動かない。
もしかして、死んでいるのだろうか。
だとしたら、よけいに怖い。
そんな間近を通らなければならないなんて。
時間は経つばかりである。
ひとり、困り果てていた時、後ろから自転車に乗った中学生が走ってきた。
わたしに話しかけるでもなく、通りすぎて行ったその自転車は、その道の先にあった犬の塊に目もくれず、横切っていった。
「あれ?」
恐る恐る、野良犬に近づいてみる。
近づくにつれ、心臓が高鳴る。
もっと、近づくにつれ、今度は心臓が安堵していく。
「なんだ……。犬じゃなかった」
わたしが野良犬だと信じこんでいたもの。
それは、ただのよごれた布の袋だった。
雨にぬれて、しわくちゃになって、地面にへばりつくようにして、それは落ちていた。
こどもながらに、なんだか恥ずかしい、そして損したような気分で、のこりの帰り道をてくてくと帰っていったことを覚えている。
これは「思いこみ」がつくり出した、まさに「幻想物語」である。
それは、「野良犬がいて、怖かった」という「経験」がつくり出した、まさに「自作自演」とも言える「物語」。
当時のわたしは、まだ7歳か、8歳。
たったの7~8年の経験のなかで、つくり出されたこの「思いこみ」は、強烈な現実味をもってわたしに「幻想」を見せてきたのである。
あれから約30年経過した、現在のわたし。
その間に蓄積された「思いこみ」の数たるや、恐ろしいものがある。
そして、見ている「幻想物語」は、あの頃よりもさらにリアリティに磨きがかかっている。
そんな気がしてならないのだ。
「この食べものは、まずい」
「あの場所は、こわい」
「この作業は、むずかしそう」
「思いこみ」は、どうもネガティブゾーンに多いような気もする。
以前、友人の家を訪れたときのこと。
その友人の2歳になるこどもが、部屋からひとり出て行った。
部屋の外は、電気がなく、夜だったのでまっ暗だった。
にもかかわらず、その子は、暗やみでケタケタと笑って、何やらひとりで楽しそうに遊んでいるのでる。
「暗いところ、怖くないのかな? すごいね」
「暗いところは怖いところ、と、感じたことが、まだないのだろうね」と、友人。
その言葉に、なんだか考えさせられてしまった。
「暗いところは、怖いところ」
わたしがその子に見ていたもの、それは結局のところ、わたしの「思いこみ」である。
もう「記憶」にはないけれど「暗いところは、怖いところ」という「経験」を、わたしはいつの間にかしていたのだろう。
そして、それは「記憶」となってわたしに、今もこびりついているのだ。
そういえば、このあいだ、なかなか寝付くことができなかった夜。
ひさしぶりに深夜番組『タモリ倶楽部』を見た。
その番組内での『空耳アワー』というコーナーに、おなかをかかえて笑ってしまった。
聞いた音楽や、映画に、実際の歌詞やセリフとは異なるけれど
「なんとなくこんな風に聞こえるよね?」というのを当てはめてある「空耳」を、
おもしろおかしく、バカバカしい世界でもって、展開しているあのコーナーである。
あいかわらずのバカバカしさではあったが、人の「思いこみ」の、ある意味でのすばらしさを感じてしまった。
今まで聞いたことのある「経験」がつくり出す「空耳」の世界。
そこから生まれる「笑い」の世界。
これもまた、あの野良犬事件とはまた違う、一風変わった「幻想物語」と言える。
それにしても、人の「人」に対する「思いこみ」もまた、なんとも勝手なものがあるなと感じる。
「やさし、そうな人」
「こわ、そうな人」
「気むずかし、そうな人」
「おおらか、そうな人」
その「……そうな人」は、一体どれくらいの正解率なのだろうか。
その正解率も、やはり「経験」がものをいうのだろうか。
これは、わたしに限ってのことではないかとは思うのだが、苦手な人をいい人だと「思いこむ」のは、かなり難しい。
苦手と感じていることの方が、わたしの勝手な「思いこみ」で、本当はいい人なのかもしれない。
事実、そうではなくても、いい人だと「思いこむ」ことができたなら。
人生、ずいぶん変わってくる、そんな気がするのだ。
ただの小麦粉を、良薬と「思い込む」ことで、病気が癒えることがあるのとおなじように。
……。
が、しかし、やはり苦手は苦手。
そう簡単に「思いこみ」ははずれないものである。
しかたがない。
そんなときは『空耳アワー』でも見るとしよう。
そして、笑える方の「幻想物語」を演じられるように、すこしでも楽しい「経験」を増やしていこう。
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