『木曜日だった男』、チェスタトン、光文社古典新訳文庫

・人間が本心で考えていることなど、言葉に出して言うことの半分か、10分の1ぐらいなものだととなえるサイムと、無政府主義を本気で信奉していると主張するグレゴリー。二人の詩人の対決は、グレゴリーが「すごく楽しい一晩を約束する」とサイムを連れ出した酒場で幕を開ける。伊勢海老のマヨネーズ和えが出てくるのが面白い。(海老マヨのこと?)ただ、冒頭の十数ページの作者のポエムがだるい。これからこういう壮大な話が始まるよ〜という前置きはいいからさっさと話し始めてくれと思ってしまった。詩に散文的意味を持たせるのは読解が大変だからやめてほしかった。

・グレゴリーの無政府主義は、政府や信仰ではなく、神を廃止するための戦いであることが判明する。これはおもしろいプロットで衝撃的であり、カフカの審判で「ヨーゼフ・K!」と裁判官が叫んだ時の衝撃を思い出した。

・グレゴリーが無政府主義者であることを言えない警察官のサイム、サイムが警察官であることを言えない無政府主義のグレゴリー。どちらがボロを出すかの戦いというプロットが面白いが、グレゴリーが無政府主義であることは割れていたのではなかったか?

・普通の犯罪者は、生に執着しているので、罪は深くない。泥棒は所有を否定せず、ただ自分の所有するものを増やしたいだけであり、殺人者も生を否定せず、ただ自分の生を充実させるために他人の生を否定しているだけ。それに対して、知的犯罪者は、人類の自殺を願っている。「一般の犯罪者は...建物を掃除したいとは思いますが、壊したいとは思わないんです。ところが邪悪な哲学者は物事を変えるのではなくて、根絶しようとするんです。」(p.59)

・物語の中盤のサイムの独白は面白い。森の木々が作り出す影で仲間の身体が黒い影になったり白く光ったりするが、この明暗を、人が髭や眼鏡や鼻を取ることで敵や味方に早変わりする世界の象徴のように感じている。つまり、「現代人が印象主義とよぶもの...宇宙に根底を見出すことのできない究極の懐疑主義の別名である。」(p.164)

・日曜日は神であり、六人の曜日は天使であり、グレゴリーはサタンであった。この寓意は面白い。グレゴリーが、政府の唯一の罪は統治していることであり、最高権力の罪はそれが最高であること、という指摘はウェーバーのsovereigntyの定義を思い出す。Legitimate use of force within a given territory. 何故Legitimateなのか、そこに倫理的、道徳的な根拠はない。

・解説より。チェスタトンはジャーナリストであった。当時、物書きを志望する若者は、出版社に顔を売って、小さな書き物の仕事をもらって、やがて新聞に寄稿したり、モノグラフを書いたりして知られていくのが出世のイメージ。チェスタトンもそのような出世を辿るが、芸術家気質であれば詩や小説に専念したかもしれないが、新聞や雑誌への寄稿やBBCラジオへの出演を続けるなど、現代社会にものを申す立場を貫き続け、その意味で終生ジャーナリストであった。

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