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実際に旅してわかった「思想」から学ぶ近代中国史

私事だが、2024年9月に北京・香港・上海の3都市を2週間かけて周遊した。正確には北京→ウランバートル→香港→上海の4都市を周ったのだが、今回は中国が題材なのでモンゴルでの出来事はまた後日記事にする。

中国随一の経済都市・上海。この地で要職につくことが共産党内での出世に繋がると言われている

序章

中国では道中さまざまな観光スポットや施設を巡ったのだけど、今も鮮明にまぶたに焼きついているのは、ずばり中国共産党の関連施設。その中でも毛主席記念堂、中共一大会址ちゅうきょういったいかいし、中国共産党博物館の3カ所は、近代中国史を語る上で欠かせない重要施設だ。

ちなみに日本の国会議事堂にあたる人民大会堂は人気すぎてチケット取れず。

毛主席記念堂には毛沢東の遺体が安置されており、中国本土から多くの参拝者が訪れる

中国特有のベルトコンベアー式セキュリティーチェックを済まし、施設内に入場すると、どの施設も驚くほど清潔に整備されている。ほこりひとつも許されないであろう館内に、尋常ではない数のセキュリティーとスタッフ。何かある種の堅固な「威厳」を感じられるずには入られなかった。そしてその威厳の権化ごんげを言葉なく見つめる中国国民。

中国共産党博物館では共産党の歴史をビデオ放映していた

驚きは施設内だけではない。観光地や繁華街では、国旗を振る人、五星紅旗ごせいこうきのペイントを頬に描いている人を多く見受けられた。日本で同じ光景が見られるのはナショナルチームの試合に限られる。

それに加え、モンゴルで成り行きで中国人女性と行動を共にしていたとき、たまたま中国共産党の高官一団と出くわした。そのときの彼女の狂喜乱舞ぶりは尋常ではなかった。名門香港大学を卒業した才媛が、まるでトップアイドルに出くわしたかのように、キャッキャとはしゃいでいたのには驚かされた。

モンゴルで出くわした中国高官一団

今回、実際に中国へ行ってみると、香港でのデモや天安門事件を代表する民主化運動がたびたび起こっているにせよ、創立してから約100年も権力の座を保持している中国共産党の強さをまざまざと見せつけられた気がした。

こういった現状を作りえた中国という国家だが、日本に住むみなさんは中国に対してどういったイメージを持っているだろうか?

「独裁国家」
「人権がない」
「生命が軽い」
「安全性がない」
「常に監視されてる」
「反日感情が強い」
「反日教育がなされている」
「中国共産党が牛耳っている国」

だいたいは上記の意見がほとんどだろう。どれも根底にあるのは中国に対して「なんか怖い」だ。外国人の僕の母親も同意見だった。

しかし、「なんで怖いの?」と訊くとだいたいの人は答えられない。でもこれはダメだと思う。無知であるがゆえに感じる恐怖が一番の脅威だからだ。実際に多くの場面で、情報がない敵と戦ったときほど負け戦に身を沈めてしまわないだろうか。

よって本記事では、時代ごとの中国国家の根底にある「思想」を基になるべくカジュアルに近代中国史を紐解いていく。

この記事を読み終えると、現代の中国がどういった変遷を経て作られてきたのか、またどういった思想を持っているのかをより鮮明に浮き彫りにすることができる。その結果、幾分怖さが減少している可能性もあるし、もしかしたらさらに恐怖が増しているかもしれないが。

清の滅亡と中華人民共和国の成立

中国近代史を語るならば、中国が「しん」と呼ばれていた時代まで遡る必要がある。時は1911年。映画「ラストエンペラー」で有名な愛新覚羅溥儀あいしんかくらふぎが最後の皇帝を務めた清朝最後の年だ。

溥儀は清朝だけはなく日本の傀儡政権と言われる満洲国の皇帝でもあった

この時代、日清戦争の敗北などで清は弱体化しており、英仏露独日などの列強諸国により国土の分割支配が進んでいた。そして財政難の解決策のため、清は外国から借り入れをすることを計画。その担保として民営鉄道を目につけ、鉄道国有化政策を宣言した。

これに怒った民族資本家を中心に反対運動が起こり、反乱軍も生まれ、その反乱は各地に飛び火し、「清政府ではもうダメだ」と多くの省が独立していった。これがきっかけでその後、清は滅亡し、267年間の歴史に幕を閉じた。これが辛亥革命しんがいかくめいという出来事だ。

辛亥革命を記した絵

翌年、この革命の中心にいた孫文が臨時大統領を務める中華民国臨時政府が建国された。秦の時代から続いた皇帝政治は終わりを告げ、アジアで最初の共和国が誕生した。このとき孫文は中国国民党を組織した。この国民党こそが今の台湾のルーツだ。

中国革命の父・孫文

共和国とは、主権が国王や皇帝ではなく、国民にあり、国民が選んだ政治家が政治を行う国家のこと。まさに国民党はそれを目指していた。

このとき孫文が唱えた三民主義という思想。これは民族主義、民権主義、民生主義の3つから成り立つ。

民族主義:中華圏に住む漢民族やモンゴル人など様々な民族を統一し、他の国から完全に独立した国家を作ろうという思想。

民権主義:国民に主権があり、選挙で選ばれた政治家が政治を取り仕切ろうという思想。

民生主義:資本家が富を総取りするのではなく、みんな平等に分配しようという思想。

といっても広大な中国。国民党は一枚岩にまとめることはできなかった。軍事力を背景に権力を握ろうといしていた軍閥などの勢力が各地に割拠していたからだ。

それではいけないと孫文の死後、国民党は蔣介石を指導者とし、中国統一を目指し、国民革命軍を率いて北伐(軍閥を打倒するために各地で戦った戦争)を開始し、いったんは国民党が中国を統一した。

台湾の中正紀念堂にある蒋介石の像

その後、台頭してきたのが中国共産党だった。そしてその党の指導者が毛沢東。中国共産党はソ連(ソビエト連邦)の共産主義に触発されたメンバーが集まり、労働者や低所得者を中心に国を作っていくことを目標に作られた党だ。

毛沢東は共産党内で徐々に頭角を表していき、遂に指導者へ

ちなみに共産党は1921年7月に上海で第1回の党大会を開催し、創立された。この第1回党大会場所は、中共一大会址ちゅうきょういったいかいしと呼ばれ、今では万里の長城や故宮博物院と並ぶ5A級観光地の一つとして一般公開されている。要するに政党関連施設が国を代表する観光施設の一つに位置付けられているということ。

中共一大会址の前で多くの観光客が記念撮影をしていた

このようにこの時代には国民党、共産党、軍閥に日本も加わり4つの大きな勢力が中華統一の覇権を争っていた。

しかし、まずは内より外。軍閥が国民党の蒋介石を監禁して、共産党と協力するようにと説得する西安事件が起こり、国民党と共産党は国共合作という協力関係を結び、日本に立ち向かった。

日本は別で戦っていたアメリカとの戦いで敗れ、覇権争いから強制退場。その後、日本という敵がいなくなったことにより協力関係が消滅。再度、国民党と共産党が覇権を争うことになった。

最終的には腐敗が目立つ国民党は国民の支持を得られず、逆に共産党は農村部を中心に国民の支持を得て、ついに国民党を破り、毛沢東が1949年10月1日に天安門広場で中華人民共和国の成立を宣言した。

毛沢東の肖像画が掲げられた天安門。この上で毛沢東は建国宣言をした

このときの中国共産党主席が毛沢東であったため、彼は「建国の父」と呼ばれている。ちなみに毛沢東と一緒に戦っていたのが、習近平しゅうきんぺいの父・習仲勲しゅうちゅうくん。習近平は実は世襲政治家なのである。

習近平の父・習仲勲

一方、共産党に敗れた蔣介石率いる国民党は政府機能を台湾へ移した。だから今の台湾の正式な国名は中華民国なのだ。そして中華民国政府は、中国本土を一時は統一した過去を持っているので、本当の中国はこちら側だと表明しているのだ。

しかし、台湾を主権国家として承認している国は現在13カ国のみ。日本も承認していない。台湾を国家として承認しないようにと中国が関係各国に圧力をかけているので中国との関係上、日本は承認できない立場なのだ。だが、半導体ファウンドリ世界最大手のTSMCを筆頭に経済面では大きく繋がっている。

2024年2月に開所した20万平方メートル超のTSMC熊本第1工場

中国を統一した中国共産党の基本思想

国民党を台湾に排除し、中国の主権を完全に掌握した共産党の政治思想は、バリバリの共産主義だ。元々はソ連のコミンテルンの指導のもと作られたので当たり前っちゃ当たり前。それに共産党初期の中心メンバーはソ連への留学生たち。コテコテの共産主義教育が施されていた。
※コミンテルンとは、各国の共産党の創立や援助をする機関のこと

中国共産党博物館にある共産党初期メンバーが描かれた絵

共産主義とは簡単に言うと「富をみんなで分配してみんな平等に生きていこうね」という思想。要するにすべてのモノが平等に分配されている世界を理想としている。19世紀にプロイセン王国時代のカール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスによって提唱された概念を基礎としている。

でも「共産主義の国ってあるの?」と思われた方もいるんじゃないだろうか。その通り、完璧な共産主義という国は未だかつて存在したことがない。共産主義の国を作りあげるということはめちゃくちゃ難易度が高いからだ。

なので共産主義を目指す前段階として、国がすべてのモノを一元管理して分配する社会主義を挟むことが定石となっている。現在、社会主義を宣言している国は、中国以外に北朝鮮、ベトナム、キューバ、ラオスなどが挙げられる。

共産主義が提唱されたときは「なんて理想的な姿なんだろう」と多くの人が思った。そしてソ連がいち早く共産主義の一歩手前の社会主義国家を作ることを宣言した。そのソ連に教育された共産党率いる中国も社会主義を選択した。

これが建国から今でも変わらない中国の基盤になっている思想だ。だがしかしだ。現代の中国を見て「どこが共産主義?」と嘆く人が多いのも事実。これについては後述する。

余談だが共産主義、社会主義ともに赤色や赤旗が広く使われる。マルクス・レーニン主義系(レーニンが発展させたマルクス主義の一つ)には鎌とつちや赤い星が使用される。

実際、中国共産党の党旗が鎌と槌だ

毛沢東の思想と政策

内戦に打ち勝ち、ようやく中国の最高指導者になった毛沢東。

けど共産主義はおろか社会主義で国家を運営する難易度も非常に高かった。だってみんな平等にしたら、頑張って働いている人が損してしまうから。頑張っても頑張ってもみんな同じ給料。「それじゃ頑張らず適度にサボった方が楽じゃん」とみんな思うわけだ。

そう社会主義・共産主義のメリットは貧富の差がなくなることだが、デメリットは頑張る人がいなくなり、経済が低迷してしまうことだ。そうするとグローバルな競争からも取り残されてしまう。

実際に1958年、毛沢東は大躍進政策(国主導の農作物と鉄鋼製品の増産計画)を実行するが、素人の頑張らない人を働かしただけで大失敗に終わり、多くの国民が大飢饉で死亡した。

技術のない農民に鉄鋼製品を作らせることは到底無理だった

これがきっかけで毛沢東の権力は弱まったが、権力奪回の施策として1966年から文化大革命を開始した。共産主義に反する動きを排除する目的だったが、蓋を開けてみれば、毛沢東に反発しそうな多くの知識人や政治家などが迫害・殺害されただけの大規模な権力闘争であった。

文化大革命は毛沢東が亡くなるまで約10年続き、多くの犠牲者を生んだ。このように社会主義とは経済が成長しないばかりか、権力が国に集中してしまう傾向にある。

当時、紅衛兵こうえいへいと呼ばれる毛沢東信奉者が街を練り歩き、政治家や知識人を弾圧した

ソ連でも同様だった。大企業からスーパーまですべて国営化された。もちろん就業している成人すべてが公務員。さらにテレビや新聞などメディアも国営。そうなると国に権力が集中し、言論の自由はなかったし、宗教の選択もできなかった。そういった不自由さと経済の低迷が理由で、ソ連を構成する国々は次々と独立を要求していき、1991年についにソ連は崩壊した。

ソ連を見本としていた中国は焦った。

しかし、すべての場面において中国共産党が指導していく構造をどうしても捨て去ることができなかった。

鄧小平による経済大変革

毛沢東は次の後継者に華国鋒かこくほうを指名するが、毛の死後、華国鋒は鄧小平とうしょうへいとの権力闘争に敗れて失脚した。それにより鄧小平が最高指導者の座に就いた。

中国経済の礎を築いた鄧小平

大躍進、文化大革命のあと経済が悪化していた中国では、経済に強い鄧小平は多いに期待され、そして彼はその期待に答えた。

鄧小平が取った政策は社会主義(国が経済をコントロール)のもとで市場経済(自由に商売してOK)を導入するという改革開放政策だ。簡単に説明すると経済に資本主義を導入し、富める人から富み、そして富んだ人はその富を分配しなければいけないよという思想。でも実際は国の支配者である共産党の命令をちゃんと聞いていれば、自由に商売してもいいよという考えだ。

完全な社会主義では国が崩壊することを学んだ中国は、共産党一党独裁の下で、資本主義経済の仕組みを取り入れたのだ。このような経済システムを社会主義市場経済と呼ぶ。

またこの時代に国内に4カ所の経済特区を作り、外国企業の誘致も行ったおかげで、中国経済が回復し始めた。
※経済特区とは、まずはお試しで経済の自由化を試す場所として作られたエリアのこと

経済特区の一つ・深圳。珠海、汕頭、廈門、海南省と合わせて現在は5エリアある

経済での自由化が進むと、民衆は政治にも自由化を求め始めた。ソ連の崩壊や共産党高官の胡耀邦こようほうが民主化支持派であったことも追い風になり、ついに学生や労働者を中心に民主化運動が勃発。そして、1989年6月に抗議活動家たちが北京の天安門広場に集まり、政治腐敗の根絶や民主化を訴えた。

しかし鄧小平は、そこに軍を導入させた。6月4日に軍はデモ隊に向け無差別銃撃を行い、多数の死傷者を出すことに。この出来事が天安門事件である。このときの死者数は中国政府公式の発表では319人だが、イギリスの外交文書によると少なくとも1万人以上が亡くなったと書かれている。

天安門広場に集まった民主化を求めるデモ隊

経済は自由化を進めるが、政治は一党独裁を貫くという共産党の強固な姿勢が国民を抑え込む形となった。鄧小平の思想は、自由経済は取り入れるが、あくまで毛沢東の抱いていた政治的思想は崩さないということ。これが今でも続く中国の基本スタンスだ。

1997年に鄧小平は亡くなるが、現在でも続く中国経済の成長は明らかにこの鄧小平の時代から始まった。その反面、多大な犠牲を払ってでも、共産党がすべての権限を持つという姿勢を明確化した時代でもある。

江沢民と胡錦濤の争い

次に最高指導者の地位に就いたのが江沢民こうたくみんだ。彼の在任中の1997年にイギリスから香港、1999年にポルトガルからマカオが中国に返還された。そして経済はより発展していった。

江沢民の時代に中国経済は加速した

でも、いくら自由経済と言っても、最終的には私有財産を没収して平等に分配されるのが共産主義の思想。自由経済によって金持ちになった資産家の中には「いずれ自分たちの資産も没収されるのでは」と考えて海外移住する者が増えた。

そういった経済資源を海外に流出することの抑止力として、江沢民は「三つの代表」という施策を2000年に打ち出した。内容は「資産家や企業家も中国共産党に入っていいですよ」という施策だ。中国共産党という圧倒的な権力母体に資産家が参加できることにより、自分の資産は守れるということだ。

これによって、より利益追及型になった中国は、圧倒的な人口と広大な市場を背景に、世界有数の経済大国にのし上がっていった。

同時に一党支配と資本主義の共存が生み出した歪みが表面化してきた。自由主義経済とはいえ、共産党主導の支配下にあるため、とてつもない権力が党幹部に集中していった。同時に自らの利益の追求を最優先する党幹部が増え、党内に汚職が蔓延してしまった。

その後、汚職撲滅を掲げていた胡錦濤こきんとうが最高指導者の座に就いたが、江沢民が自身の利権や権力を保持するために、胡錦濤時代の政治局常務委員会(共産党のトップメンバー)に江沢民派の人間を組み込んだ。

そのため胡錦濤が最高指導者であったにも関わらず、江沢民が絶大な権力を持った。結果、胡錦濤は汚職をする江沢民の派閥を取り締まることができなかった。それにもし取り締まりをやってしまうと共産党自体の信用問題になり、一党独裁という地位を揺るがすことになると考えて動けなかった。

江沢民と常に争っていた胡錦濤

二人が争っている間に頭角を表したのが習近平しゅうきんぺいだ。彼は江沢民、胡錦濤どちらの派閥にも属していなかったため平等な立場だった。

胡錦濤、江沢民共に同派閥の後継者を次期最高指導者に据えたいという目論見はあったが、お互い妥協する形で両派閥に属していない習近平が2012年11月に最高指導者に選ばれたのだ。

どっちつかずの姿勢が功を奏した

習近平時代の到来

妥協とはいえ江沢民によって引き上げられた習近平が最高指導者に就いた経緯から、江沢民の利権は安泰かと思われた。

しかし習近平は江沢民に反旗を翻し、「腐敗撲滅キャンペーン」と銘打って、汚職を徹底的に取り締まっていった。それは苛烈を極め、江沢民派であろうと一緒くたに処分していくことに。その結果、江沢民は党内で影響力をほぼ失うことになった。

中央政治局常務委員を務めた最高幹部の周永康も汚職で終身刑に処された

まさに「虎もハエも一緒に叩く」というスローガン通り、次から次へと権力者を粛清していった。その結果、ついに習近平に逆らう者は党内からいなくなることに。

この時点で習近平のまさにやりたい放題の地場が固まった。まず習近平は国家主席の任期制を自ら法律を変えて撤廃。鄧小平時代に決まった2期10年の任期を飛び越え、2023年3月10日には3期目に突入して今に至る。

ちなみにロシアのプーチン大統領も2020年に任期をリセットできる条項を憲法改正に盛り込み、2036年まで大統領を務めることができるようにした。ほんと一人に権力が集中しすぎると法律とか関係なくなってくる。

そしてさらに党の支配を強めるため、中国は未だ人類が経験したことがない監視社会へと変貌していくことに。カメラによる顔認証システム、Googleなど外資系アプリの制限、共産党の不利になる発言の削除と取り締まり、反スパイ法の強化など民衆の自由を制限していった。

空港、街中問わずとにかく中国は監視カメラが多い

あくまで一党独裁の維持は至上命題。そのために次に習近平政権が目指すのは経済利益を伸ばし続け、その先にある富の分配だ。それ以外に一党独裁体制を保持する大義は存在しない。

かつての交易路であるシルクロードになぞらえ、アジアとヨーロッパの物流ルートを陸路と海上両方から結ぶ一帯一路構想も中国経済発展のために生まれた。

実際に中国を旅していると至るところで「一帯一路」の文字を目にする。中国に到着した旅行者は、まず入国審査で一帯一路専用レーンを目にするだろう。一帯一路構想参加国の国民は入国審査を簡略化することができるという施策だ。

このように共産党が生み出した「いびつなほころび」を強大な権力で押さえつけ、とんでもない速度で改革を続けるのが現代中国の姿なのだ。

旅を終えて

もともと「共産主義」という漢字は日本で生まれた。明治時代に海外からCommunismという思想が日本に入ってきて、適当に「共産主義」という言葉を当てはめたのが始まりだ。その後、中国は「共産主義」という文字をそのまま使い、ユートピアを目指した。

共産主義への発展途上としての社会主義というのが今の中国の姿だと僕は思っていたが、ネット上ではさまざまな意見が交差していた。ネットで見れる情報に限界を感じた僕は、実際に現場を見たくなり、中国行きを決めたのがこの旅のきっかけだ。

中国では数多くの共産党施設を見学した

しかし現状の中国はCommunismの世界に近付いているのか? 実際に中国に行ってみるとそうは思えなかった。ホームレスは普通にいるし、農村と都市部での戸籍による権利差も依然として存在している。さまざまな施策も有力者を消すための権力闘争にしか見えない。おそらく僕だけではなく、多くの人の目には今の中国は専制主義国家に映るだろう。

しかし経済面だけを見れば、中国のGDPは世界第2位だ。自由主義経済を取り入れた今の中国は、世界が無視できない存在まで駆け上がった。

最近では顔認証技術で世界最大の輸出国になったりと、AIの分野でも世界のトップに立とうとしている。たとえ囚人をタダ同然で働かせるような人権を無視する経済活動を行っても、たとえ共産党批判をした中国最大手グループのCEOが失脚する世界線でも、経済面では数字がついてきている。

この大きな矛盾はなんだろうか?
そしてこの特異性の正体は?

帰国した後、日本人が中国で殺害されるニュースが流れた。うわべだけの国民性を引っ張りだして大騒ぎする仮想空間。ものすごく悲しい事件には変わりない。しかし本質はもっと違う次元に隠されているような気がしてならなかった。

まぁとにかく想像以上に「格差」を感じた旅であった。

最後に中国で購入した毛沢東バッジを載せておく。特に意味はないが。友人にあげたら大喜びだった。ん〜。

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