『I like movies』感想

I like movies
ネタバレになるかもしれないので自衛してください

まず、観終わってからずっとモヤモヤが無くならならず、というより少しずつ蓄積されたしんどい要素が不完全燃焼のままそのしんどさを残し終わってしまった感覚(個人的な感想です)にすごく情緒を引っ張られて気分が沈んでしまっている。

しんどくなる要素
・自分の不安定な感情を、“好き”を全面に持ってくることで心の奥に追いやっている事(恐らくそれを本人は無自覚な事)
・よく考えれば明確に違うと理解できるはずの言葉を大切な人間に向けてしまうこと
・その言葉を発してしまうまでの回路が短絡的になってしまうジュブナイル、HSP要素の多分な不安定感
・大きな夢、キャリアを追う過程で逃れられなかった性加害、トラウマ
・自分が好きであるはずのものをもっと純粋な目でまっすぐと好きを振り撒いて生きる人の眩しさに、自分の“好き”や、やっていることに対する感情に多少自信を無くすこと
・今まで通りの関係に戻りたいと望んでも戻らない、戻せなかった、どこまでも現実的な結果
・描いている夢や憧ればかり大きく、妄想は多分に膨らむのにそれに実力や能力が伴っていないとわかること。その現実に心が追いついていかない様子
・嫉妬
・自分から人が離れていくこと
・近親者の自殺
・現実的な自分の能力や状況を眼前に突きつけられ最も理想とする形からはほど遠い、反対に、自分がなりたくない、進みたくないと思っていた道を選択しなければいけない現実
・向けたくない言葉、言いたくない言葉をヒートアップして発語してしまうこと、それを発語することは間違っていると思っていながらも、言い方を変えれば本当に当人が心のどこかで実感している感情であるということ

などまだまだ考えてみると、かいつまんでもっとこのシーンのこの人からこの人に発せられたこの言葉が、、とか、あげるとキリがなくなってくるのだけれど、だいたいこれらの要素にとてもしんどいと思ってしまった。

最も今の自分の心理状態に近いと思うのは、過去、村田沙耶香さんの『コンビニ人間』を読んだ後の感情。

その他あげるとすると
藤本タツキ『ルックバック』における、憧れを前にその眩しさに苦しさを覚え葛藤する感情や、
映画『FRANK-フランク-』での、能力、才能が理想に及ばない現実、それに対する苦しさ
など、これらを観た際の感情のどれもを含んでいる気がして一気に感情を持っていかれたまま少し立ち直れずにいる。


過去、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』で坂口健太郎が言っていた

どこにでもいる子になりたくない子ってどこにでも居るよ

のニュアンスにずっと苦しめ続けられている人間であるので、列挙した作品には非常に感情移入し考えこんで落ち込んでしまう点が多い。


わたしも今作の主人公のようにやはりとても理想主義的で、現実的に自分の能力に見合わない高さの理想を掲げ夢想している人間であるし、自分がそのレベルを理想として思い描いているのは自分の中で確固として“これがかっこいい”というものが確立してしまっているからで、そのレベルをどうこう、基準を動かす動かせないという話ではなく、もう不動のそれに対して自分の能力を鑑みないまま憧れる才能だけがある人になってしまっている。

それが苦しい、理想を理想と思う気持ちは変えられないし憧れはなくならない、自分が変わるしか道はなく、理想と現実のギャップに一番落胆しているのが自分自身であるし、その大きなギャップを埋められるほどに変われる自信がない、皆無に近い。

つまりは、理想を実現させるための現実的な(自分の)能力、他者が介在する際はその実現性(させて貰えるさせて貰えない、経済力、状況、その他者からの理解の有無)などそこの間隔の大小で、実際自分が今位置している場所が理想からどれほど遠い距離にあるのか、どれほどそれを実現することが難しいかを再認識するために向き合わなければいけない現実に心が打ちひしがれてしまう。

言い方が違うだけで同じことを書いている気がする。



前述の他作品を観た際にも主人公をみていると、どこかに、部分的にでも自分を見ているようで(あるいは自分の行く先を見ているようで)非常に心が重くなったのをおぼえている。自己を投影してしまう。

『i like movies』が中でもより自分の感情を落ち込ませる要因となったのは、比較的登場人物のほとんどのパーソナリティや言動に共感できる部分があったからかもしれない。

全員の言っていることをそうだよな、そう思ってしまうよなと理解することができたように思う。

私自身に焦点を当てて考えると、自分はあまりにも物事を多角的に客観的に見たい、見られるようになりたい、そう見るべきだという思いが強い節がある。

物語を見進めていくと全員の今の言動を当事者目線で理解しようと寄り添い共感しようとしてしまうし本当にほとんどの人間に共感を持てた。というよりも理解ができた。わからない、理解ができない言動だと思うことがなかった。特にこの映画は、だ。
自分が他者から固定概念や先入観にとらわれて見られることを恐れ嫌っているところがあるので自分自身はひとりひとりを“分かろうとしたい”。
自分で言っていて笑えてくるくらいちょっと鬱陶しい、うざいスタンスに思えることをそれでもしたいと思う。性格。良い事か悪いことかわからなくなってきている。結局はただの自己満であるし。

人に対して分かりたい、わかってあげたい(〜してあげたいの言い方は嫌いであるが)と思う。


物事を考えることを好きで、考えるために人の感情まで余剰に汲み取ろうとする、その人視点で見るとどう思うかの可能性の手数を手繰る。

そうしてそういうスタンスで生きてきてこの映画を観て、非常に共感ができるキャラクターばかりでたぶん心がいっぱいになってしまった。キャパオーバーというか。



一貫してローレンスに対して
何でそんなこと言ってしまうんだよ、、
何で、、やるべきところはやろうよ、、
と思うことは多かったし色々夢みがちでやりたくないことをやりたくなかったりするところとか自分自身を重ねて見てしまうことが多かった彼に対して、上に挙げた何で、の感情は決して私の場合イライラではなかったし、彼が持つ自分の世界や信じているもの(や結局はそれを信じている自分自身)に対するナルシシズムに痛い、見ていられないなと思うことは全くなかった

そこがたぶんわたしは世間一般と違っていた

filmarksを見ていて、あまりにも主人公に対するイライラ、痛さ、共感性羞恥を述べている人間が多すぎて、それを感じることがなかった自分自身の物事の受け取り方を少し信じられなくなってしまっているし、それがわからなかったからわたしが見ていて自分みたいに思った部分からも一気に矛先が総体的に自分自身という大きな的に対象を変え、自分自身丸ごと私もローレンスが言われている全部を言われているように思ってしまってたぶんダメだったのだと思う。辛かった。彼に共感できること自体が世間一般の“普通”から外れた場所にあるみたいで、自分がそうなのだなと改めて思わされたみたいで


少しもっと他人行儀に居ることを覚えなければいけないと思った。

こんな作中のキャラクターに共感をして、いちいちそのキャラクターの分まで自分も言われているみたいに感ぜられていては非常に生きていくのが難しい。

もっと手放しに創作物を創作物として消費し、あくまでも外側から理解する力を育てなければいけない。

あるいは育ちすぎてしまった共感力を創作物の内側まで干渉させることなく縮小させる力を身につける必要がある、自分のために

文章にして改めて考え方を考えることで意識をしないと忘れてしまったりまとまらなくてずっとモヤモヤし続けたりしてしまう少し過剰な想像力をもっとわたしが生きやすいように飼い慣らしていきたいと思った。

結局は自分語りで終わってしまって申し訳なく思えてくる。たぶん誰に読まれるでもないのに

ただこうして文章化することで自分のモヤモヤとか落ち込んだ感情がスッキリする感覚を確かに感じられているので書けてよかった。自分がスッキリするための文章で、誰もモヤモヤすることがないと良いなと祈っている。

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