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老衰の価値

そろそろ自分が主人公だと思っていた舞台の幕を閉じる時が来たらしい。嗚呼、何も実らぬつまらぬ劇だったが、結果的にそれは喜劇だった。それで十分なのか知らん。

いつの時代も主人公は若者であって然るべき。引退者はそれをサポートする脇役に徹しなければならない。それができて初めて老衰の価値がある。自分が主人公だと思っている内は、どんなに歳を重ねていようとも、その人は大人に満たないのかもしれない。

他の例に漏れず、キリスト教会に若者が少ない。福音は冥土の土産でもあるが、一義的には「生きる」ための神の言葉である。それを知るのは、若ければ若いほど良い。ことに20代を過ぎてから知ると、過去の自分を捨てきれず、肉から逃れられなくなる傾向が強いらしい。理性が勝ちすぎるのも善くない。

神はこの愚かな人間に自由意思を与え給うた。それ自体が神の愛に他ならない。そして、その権利を行使して神の愛に応答する。それ以上に美しい関係があるだろうか。
しかし、多くの人間はその美しい関係を反古し、自由意思という一方的に与えられた権利のみを主張する。
親が子を愛すごとく、神は尚も人間を見捨てないが、悲劇の発端はここにある。
肉の思いは神に敵対し、肉の内にある者は神を喜ばせることはできない。

人間に対する、創造主である神の感情は主に2つであり、それは「可愛い」という慈愛と「悲しい」という悲哀ではないか、と勝手に想像する。
慈愛は愛の内側に、悲哀は外にある。そのボーダーラインは意外にも厳密に、明確に引かれている。
死後にそのボーダーラインを越えることはできない、と聖書に書いてある。そのために、神は悲哀の対象である愚かな僕を憐れんでくださった。これ以上の恵みはない。

その恵みに対する応答が生きる意味である。
言葉で述べるのは極く容易いが、実行しなくては意味がない。それができぬから、ここでせめてもの醜態を晒すことで慰めている。闇雲に動けばいいというものでなし、神の時が来るのを待とう。老衰し始めた脇役として。

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