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この世はアリジゴク

仮に、生きる意味がない、もしくは、生物学的にしか認識できないとしたら、人生は蟻地獄。だとしたら、それは死にも生にも絶望しかない。宗教はアヘン(薬物)だという言葉があるが、一体何が中毒的で、逃避的なのか。

宗教を、人間が作った想像の産物だとすれば、その時点でその神は不完全であり、人間が一次的には介入しない僕のキリスト信仰は宗教ではなく、個人的な神との関係性を指す。
宗教活動の目的は何か。端的に言えば、権威者の欲望である。それに抵触するようであれば、離れた方がいいに決まってる。

哲学や宗教という形而上学的領域を、生と死を内包する人間が無視するのは明らかに不自然なため、少なくとも思考する人間はどうしても避けられない。しかし、それは目的ではなく、手段である。
しばしば、人間は目的と手段をはき違えてしまう。その現象を聖書では偶像崇拝というが、これも蟻地獄である。

利便性は人生に何をもたらしただろうか。堕落と、思考力の破壊と、更なる利便性を追い求める時間や欲望と、劣等感と、環境破壊と、大規模戦争。
さて、良いことがない。

蟻地獄の中でいくら足をばたつかせようと、ジャンプしてみようと、最終的には飲み込まれるという絶望しかない。いくら地獄で幸福を追い求めたところで不可能。人間は自ら発光することはできない。無念。

では、この蟻地獄から抜け出す方法はあるのか。それは、イエスキリストである、と言いたいところだが、自分を含め、周囲を見ている限り、それは幻想。信じれば救われるのは死後の話であって、この世のアリジゴクは神の摂理によって存在していると言わざるを得ない。
多くの人が流れに逆らわずに足を動かしている中、流れに逆らうように促す多くの宗教は、本来的にはむしろ苦しみが増す。現世利益は宗教ではなく、アヘンにも満たないタバコのようなもので論外。

足をばたつかせていることには無神論者と変わりがないが、そこに出口があることを知っているか否かの違いは、絶望と希望の差になる。自死と殉教には、天と地ほどの決定的な差がある。
どちらも苦しいには違いない。しかし、その先に永遠の地獄があるか、永遠の天国があるか。同じように見えて真逆。
いずれにしても、主体性なくしてそれは認識ができないため、そのどちらをも知らない人が多い。
世俗化した宗教に価値はない。まさに、塩気をなくした塩である。

マタイによる福音書4章 13~16節
「あなた方は地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役の持たたず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 またともし火を灯して桝の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中の物すべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

聖書(新共同訳)

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