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なんという空しさ

ひとりの時間が長すぎると、自分が分からなくなってくる。
人格とは人間関係や環境に依存して形成された、適応の結果に過ぎない。つまり、自分が分かるという方がよほど幻想である。
全てが適応の結果であり、それ以上の意味はない、としたら、なんと空しいことか。

コヘレトの言葉 1章 2~11節
コヘレトは言う。 なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが 全ての労苦も何になろう。
一代過ぎればまた一代が起こり 永遠に耐えるのは大地。
日は昇り、日は沈み あえぎ戻り、また昇る。
風は南に向かい北へ巡り、巡り巡って吹き 風はただ巡りつつ、吹き続ける。
川はみな海に注ぐが、海は満ちることなく どの川も、繰り返しその道程を流れる。
何もかも、物憂い。 語り尽くすこともできず 目は見飽きることなく 耳は聞いても満たされない。
かつてあったことはこれからもあり かつて起こったことは、これからも起こる。 太陽の下、新しいことは何一つない。
「見よ、これこそ新しい」と言ってみても それもまた、永遠の昔からあり この時代の前にもあった。
昔のことに心を留めるものはない。 これから先にあることも その後の世にはだれも心に留めはしない。

聖書 (新共同訳)

聖書の「コヘレトの言葉(伝道者の書)」は、ソロモン王によって書かれたとされている。(諸説あり)
聖書の記述によれば、ソロモン王はBC1000年頃のイスラエル王国の王様で、ダビデの息子であり、神から特別に授かった知恵によって国を大きく発展させ、最初のエルサレム神殿を建設した。
知恵の象徴ともされている人物で、一般的にも広く知られている。
さらに、こう続く。

コヘレトの言葉 1章 12~18節
わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた。
天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ。
わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、みよ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。
歪みは直らず 欠けていれば、数えられない。
わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者の誰にも勝って、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。私の心は知恵と知識を深く見極めたが、
熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。
知恵が深まれば悩みも深まり 知識が増せば痛みも増す。

聖書(新共同訳)

相対的な事象は全て無意味である、というある種の現実を、真正面から受け止められる人は、そうそういない。むしろ人間は、それを誤魔化すためにあくせく生きているに過ぎないのかもしれない。

この世の幸福とやらは、いかに現実から逃避できるかに係っている。
それを誤魔化しきれず、容認できない人が自死という選択をしてしまうのだろうか。それも適応の結果に過ぎないのか。
この世は相対的である、という事実を知ってしまった人にとっては、生きていようと死んでしまおうと意味のないことであり、自死は合理的な選択になり得てしまう。

では、栄華を極め、妻が1000人もいたソロモン王が到達した「人生は空しい」という虚無感を、延々と書き記したこの書の結論を見てみよう。

コヘレトの言葉 12章 13~14節
すべてに耳を傾けて得た結論。 「神を恐れ、その戒めを守れ。」 これこそ人間のすべて。
神は善をも悪をも 一切の業を、隠れたこともすべて 裁きの座に引き出されるであろう。

聖書(新共同訳)

虚無という絶望の中で唯一の希望とは、絶対的な存在、つまり永遠。それが、聖書の神様であって、相対的な神は神に足り得ない。

いつまでその真理を知らずに、一時的な快楽で誤魔化すのか。
あなたの生きる意味、目的は何だ。それは、本当に絶対的か。
死後に神の裁きの座に引き出された時に、どう弁明するのか。
確証もなく、神がいない虚無的な世界に全投資するつもりなのか。

コヘレトの結論は、イエスキリストの言論にも一致する。

マタイによる福音書 22章 35~38節
そのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。」

ヨハネによる福音書 14章 15~17節
「あなた方は、私を愛しているならば、私の掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」

聖書(新共同訳)

イエスキリストの言葉と照らし合わせると、
「神を恐れ、その戒めを守れ」とはすなわち、「神と隣人を愛せよ」ということ。これこそ人間のすべて、人生の絶対的基準である。

全ての人間は、死後に裁きの座に引き出されるが、神様を愛するならば、真理の霊を弁護者としてあなたのもとに遣わす、と神であるイエスは云われた。

では、神を愛するためにどうすればいいのだろうか。
救いは聖書にある。


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