ひとりの時間が長すぎると、自分が分からなくなってくる。
人格とは人間関係や環境に依存して形成された、適応の結果に過ぎない。つまり、自分が分かるという方がよほど幻想である。
全てが適応の結果であり、それ以上の意味はない、としたら、なんと空しいことか。
聖書の「コヘレトの言葉(伝道者の書)」は、ソロモン王によって書かれたとされている。(諸説あり)
聖書の記述によれば、ソロモン王はBC1000年頃のイスラエル王国の王様で、ダビデの息子であり、神から特別に授かった知恵によって国を大きく発展させ、最初のエルサレム神殿を建設した。
知恵の象徴ともされている人物で、一般的にも広く知られている。
さらに、こう続く。
相対的な事象は全て無意味である、というある種の現実を、真正面から受け止められる人は、そうそういない。むしろ人間は、それを誤魔化すためにあくせく生きているに過ぎないのかもしれない。
この世の幸福とやらは、いかに現実から逃避できるかに係っている。
それを誤魔化しきれず、容認できない人が自死という選択をしてしまうのだろうか。それも適応の結果に過ぎないのか。
この世は相対的である、という事実を知ってしまった人にとっては、生きていようと死んでしまおうと意味のないことであり、自死は合理的な選択になり得てしまう。
では、栄華を極め、妻が1000人もいたソロモン王が到達した「人生は空しい」という虚無感を、延々と書き記したこの書の結論を見てみよう。
虚無という絶望の中で唯一の希望とは、絶対的な存在、つまり永遠。それが、聖書の神様であって、相対的な神は神に足り得ない。
いつまでその真理を知らずに、一時的な快楽で誤魔化すのか。
あなたの生きる意味、目的は何だ。それは、本当に絶対的か。
死後に神の裁きの座に引き出された時に、どう弁明するのか。
確証もなく、神がいない虚無的な世界に全投資するつもりなのか。
コヘレトの結論は、イエスキリストの言論にも一致する。
イエスキリストの言葉と照らし合わせると、
「神を恐れ、その戒めを守れ」とはすなわち、「神と隣人を愛せよ」ということ。これこそ人間のすべて、人生の絶対的基準である。
全ての人間は、死後に裁きの座に引き出されるが、神様を愛するならば、真理の霊を弁護者としてあなたのもとに遣わす、と神であるイエスは云われた。
では、神を愛するためにどうすればいいのだろうか。
救いは聖書にある。