僕はまだ死ねてない
キリスト者は一度死ぬ必要がある。肉、自我、罪。これらの要素は不可分であるがゆえに、いずれかを焼き尽くそうと思えば、他の要素も焼き尽くさなくてはいけない。また、いずれかを焼き尽くせば、他の要素も消滅する。
賀川豊彦の光を浴びる。彼の聖さの前に、僕は全く無価値なものに思える。彼は若かりし時に、社会的、肉体的な死を垣間見、そして、救われた肉体を貧民窟に投げ捨てた。
そこで神が働いたとしか思えない偉業が巻き起こる。大正時代にミリオンセラーを記録した自伝的小説「死線を越えて」が生み出されたことを始めとして、数々の事業が彼を通して成し遂げられた。信仰者のひとつの完成形であり、100年の時を経て、今もなお彼の言葉、生き様は生きている。
神に委ねるということは、自己に死ぬというプロセスを経ずして、実現し得ない。牧師や宣教師の過去を聞いたときによく聞かれる「死のうと思った。」という体験談。これは偶然ではない。彼らは、一度死んだ経験をしている。それが神に自己を明け渡すこととなり、神の御業が顕現する。宗教や形式では、真の意味で自己を殺すことは不可能である。
イエスはバプテスマの時ではなく、その直後の40日に及ぶ、荒野での断食で自己を焼き尽くしたのではないか。
これは聖霊の宿りとは別の話で、神と出会った瞬間に聖霊は宿るが、自我もまだ生きている。だから、荒野で断食し、悪魔に試みられる必要があった。因みに、40という数字はノアやモーセにも見られるように、試練、そして産みの苦しみという意味があるという。
全ての人にこれを要求しているわけではないが、少なくともイエスに付き従いたい、イエスの弟子になりたいと願う人にとっては、欠かすことのできない手順であると、聖書にも書かれている。
では、「自己に死ぬ」とは具体的に何を意味しているのか。
それは、自分の中に蠢く肉、罪、自我に絶望することではないか。自殺の原因は多くの場合絶望にあると思われる。その絶望の対象が外部であれば、世を呪って救いのない破滅的な死をもたらすが、自己の内部に向かったとき、そこに神がおられることを知るのではないか。
なにぶん未経験であるため仮説に過ぎないが、しかしまた、絶望は受動的状態であるため、選択することはできない。だから、人は最低でも一度は荒野でもがき苦しむ必要があり、悪魔と試練はそのために許されているのかもしれない。
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