堕落も一種の生存戦略
皆さんご承知の通り、世の中はバケモノに溢れています。そして、かくいう僕もその一人。しかし、最近になって、ごみ屋敷のような精神がゆっくり分解されている気がする。
どうして、人間は生きながらにして腐敗していってしまうのだろうか。どんな分野であれ、最終的には悪がのさばるという法則。どう考えても、人間のベースは悪である。
朱に交われば赤くなる。目に見える存在に、完璧な白は存在し得ない。だから、赤ければ赤いほど良いとして、いいものだろうか。
大きい敵に勝つには相手よりも大きくなればいい、という思考回路が、相手を凌駕するバケモノになろうとする精神を生むのだろう。手段はともあれ、勝ったものが勝ち。
これは悲憤ではなく、人間の基本的性質の話であり、自覚がないにせよ、誰しもこういった性質を持っている。
どうして神様は、僕のようなバケモノをこの世に生み出してしまったのか。
この暗闇の世界に光はないのか。
人間はこの原罪に打ち勝てないのか。
では、僕の腐っていた精神はどうやって分解されようとしているのか。
明らかに認識できるものとしては、妻の聖さ、それしか思いつかない。
人は、聖さに接して初めて自分の醜さが見えてくる。
そして、闇は光に勝てない事実を知ったとき、初めて自分の愚かさに気づくことができる。
タヌキが猫の群れに交じって、猫のように振舞っている所を見たことがあるが、周りがバケモノだらけなら、自分がバケモノであることに気づけない。
時は江戸時代、庶民の誰もが自分が生きるだけで精一杯なのに、踏み絵を拒んだだけで公開処刑されていくキリシタンを見た人は、どう感じただろうか。
僕は、それこそが聖さであり愛だと思うが、踏み絵は偶像だから信仰者としても拒むのは無意味で無駄死にするだけ、という意見を、とあるキリスト教徒から聞いたことがある。
この両者の違いは、宗教か信仰かの違いにあり、キリスト信仰は決して宗教ではない。それを理性的に、教義的に捉えているなら、その人はキリストに出会っていないとしか思えない。
しかし、神がいくら聖いと言われても、見えない存在だから認識のしようがない。だから、目に見えるクリスチャンの存在意義がある。
クリスチャンとはキリストライクの意味であり、教団教派、正統異端は全く関係なく、その人に聖さがあればクリスチャンなのだ。
聖さ=愛であり、真の愛とは、感情でも言動でもなく、聖い状態を指す。
では、その聖さはどこから来るのか。
修行すれば獲得できるのか。
多くの献金や奉仕の代価として得られるのか。
そんなわけもなく、それらは手段ではなく結果であって、どんなに高尚な活動にも聖さがなければ意味がない。
それは簡単に言語化できる領域ではないということを理解するには、聖書の分厚さを見るだけで十分。ましてや、いくら読んでも、今の僕には理解できない。だからといって、躍起になって聖書を解読しだすと、聖書のバケモノになってしまう。そうなると、マウンティングと対立が跋扈し、聖さは雲散霧消してしまう。見事なまでの本末転倒。
どうやら、聖さを理解するには、聖い人に会ってみる以外に方法はないらしい。思えば、色んなクリスチャンと会いたいという積極性が、ここ最近になって芽生え始めている所以は、そこにあったのかもしれない。
キリスト教会を離れてしまった人、宗教を一括りにして敬遠している人等には、どうか諦めないでほしい。聖い人は、どこかに絶対居るはず。逆に、そう思える人がそこに居ないなら、そこにいる意味はないので、離れた方が賢明だと思われる。
自分の醜さ、自我という絶望的なバケモノを認識させてくれる人。最初は、自己嫌悪に陥ることでしょう。もしくは、それを避けるために反抗心が生まれるかもしれません。
しかし、絶望の先にしか真の希望はない。甘言に騙されたり、妥協してはいけない。
いうまでもなく、僕にはその聖さがないので、悪しからず。
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