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人間の尊厳

残暑の厳しい9月も中旬。空は未だに夏の顔。


異常気象が常態化すれば、それは正常ではないか。物事を正しく見ようとしなければ、成長はなく、生きる意味も損なわれてしまう気がする。そのための方法としては、マスメディアは極めて不適切であって、とりわけ現代のテレビは、思考搾取装置である。

己の頭で内発的に思考している人間は、どれくらいいるのだろうか。疑問が浮かんでもすぐに検索して答えにたどり着ける利便性は、人間の尊厳を奪ってしまう。テレビに張り付いている人間の尊厳はどこにあるのだろう。

そもそも人間に尊厳なんてあるのか知らん。思考して論理的に構築する能力は機械にその座を奪われた。哲学を並べ立てるのはChatGPTに任せればいい。
地球を管理する能力が無に等しいことは産業革命以後に証明された。
国や特定の共同体を発展させる能力もまた皆無であることは歴史を見れば明らかである。
では、人間を客観的に観察して定義してみよう。

他の害を省みることもなく、自己の必要以上に物質を内部留保しようと常に画策している生物、人間。
これは言い過ぎか。いや、人間の本質はそこにある。「必要以上」という性質。なにをするにしても過剰であることが、人間の特徴といえよう。他の生物に依存症はないし、発情期も限定的。マスターベーションにハマる猿がいると聞くが、どう考慮しても人間様の比ではない。つまり、摂理に反抗しているのは、この地球上で人間しかいない。それが人間の尊厳であると主張するがごとく。

たしかにそれは特権ではあるが、尊重されるべき性質であるはずはない。しかし実際、そう考えている人間が人類史上絶えたことはないどころか、いかなる時代でも圧倒的大多数である。刹那的に生きている人間とは積極的な関係を持ちたいとは思えないが、それを実行してしまえば、山に籠る他に選択肢がない。かといって、彼らに教え諭して改善させられるほどの技量も勇気もない。袋小路。僕は人を救えない。

では、この醜き人間である自分が世に対して果たすべき義務は何であろうか。
地球環境を守るために、環境に配慮した生活を心がけようか。かといって、20kmもの山道を今さら自転車で通勤するわけにもいかず、自分一人がペットボトルをリサイクルしたとて、その数億倍のスピードで生産されているに違いない。よってその意義は主観を出得ない。
じゃあ、困っている人のために社会活動しようか。これは、誰にも有無をいわせないほど圧倒的に正しい。そうだ、それしかない。
確かに人は人を救うことはできない。しかし、与えることはできる。そして、不思議なことに、与える喜びも初期設定されているらしい。それこそが人間の尊厳であり、最高の摂理に違いない。

そう、言葉ではなく、生き様こそが人間を人間たらしめる。言葉は人を動かさないが、物語は人の心を揺さぶる。生き様は他人の生き方を変革せる。だから、神は聖書を物語として描いたのだろうか。

その結論に満足しながら車を走らせていると、やたらと改造された軽自動車に割り込まれて、高尚に思えた思考は灼熱のアスファルトに吸い込まれたかのように消滅し、いつもの鬱屈した日常に飲み込まれた。
そのすぐ横の歩道では、おばあちゃんが曲がった腰でごみ拾いをしながら、ゆっくりと歩いていた。

ルカ書 6 36~38
あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くなりなさい。
さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。
与えなさい。そうすれば、与えられます。

2017新改訳聖書

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