わたしたちはどう感じるべきか
友人に、「〇〇ということがあった。私はどう感じるべきか?」と相談された。
〇〇はまあ、普通に考えれば悲しいことだったり、嫌だなあ、と思う出来事だった。
悲しいことに悲しんだり、嫌なことに憤慨したり、逆に嬉しいことに飛び跳ねたり、そういうことをめっきりしなくなったなあと思う。
大人になるのがこういうことなのだとしたら、なるほど、そりゃぁ高校生の時のようにもりもりご飯も食べられないわけだな、など妙に納得したりもする。
省エネで生きているから、カロリーも欲さない。
悲しんだり、憤慨したり、怒ったりすることが、何も現状を変えないということを、私たちはよく知っている。
よく、「何億年の地球の歴史上では自分の存在や悩みなんてちっぽけなものに過ぎない」、さらには「銀河系の規模で考えれば、以下同様」みたいなことが言われる。
極限までズームアウトすれば、当然ディテールは不可視になり、そうすると大体のものごとは平穏になる。
そもそも「平」穏という概念自体がディテールの凹凸を均したものだから、この感覚を日本語を創生した大昔の人も持っていたのだなあ、と思うと感慨深い。
「神は細部に宿る」という言葉は、もしかすると同じ感覚・価値観を、反対側に延長した軸の先にあるのかもしれない。
ふとした瞬間に部屋に差し込んだ光と影のコントラストや、昼寝中の猫の髭先がふるふると震える様子、口元のほんとうに小さな微笑、そういった小さな細部が、私たちの心に小さな凹凸を生み、揺らす。
ズームアウトすれば心は平らになり、ズームインすれば心は震える。
話は私とその友人に戻るが、私たちは、結果志向なのだ。
「どういう未来/結果が理想で、だからこうするべき」というフォーマットにほぼ全ての思考をフィットさせるように訓練されてきたし、そのフォーマットには「途中悲しんだり怒ったり飛び跳ねて喜んだりする」は含まれない。
そして結果志向は、原因と結果のみを評価する、かなりズームアウトされた志向(または思考)だろう。
ズームインとズームアウト、どちらにもそれぞれの美しさがあると思う。
遥か遠くに地球がぽつんと光る宇宙までズームアウトしても良いし、雌しべの先に小さく光る水滴までズームインしても良い。
どちらもいとをかし、でしょう。
私にも彼女にも、しっくりと来るところが見つかると良いな、と思います。