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ホニャララLIVE #020 松村宗亮(茶人)

古典と呼ばれるものの全ては、古典として誕生したわけではありません。例えば、クラシック音楽などは再現芸術と呼ばれることもありますけど、ベートーベンもバッハもモーツァルトだって、古典を作っていたわけではないはずだ。むしろその時代の最先端の音楽を作ったからこそ、人々を魅了し続けるのではないか。

お茶もそうなんだろうと思います。利休は「わび」こそ新しい美だと提唱し、わび茶の境地へたどり着くわけですが、松村宗亮さんのお話を伺うと、千利休が完成させたわび茶の良いところを守りながらも、現代的な解釈によって新風を吹き込もうとする大胆さを垣間見ることができます。それはまさしく守破離の精神なのかも知れない。

LIVEでは、写真を通じて、松村さんが運営されている「SHUHALLY」を紹介してもらいながら、茶会 / 茶道への理解を深めていきます。名前となっているSHUHALLYはもちろん守破離をもじっています。「自由さ」を表しているのかも知れない。

松村さんは一見するととってもアバンギャルドに見えるかも知れません。実際、松村さんの茶室「文彩庵」は全て黒い空間です。畳も壁も黒い。しかも黒い畳みはエッジがうっすらと光ります。そこに座ると自分の影が消失しますから、まるで浮遊しているような感覚を覚え、時間の観念が消失するようでもあります。同時に松村さんの所作に目がいくわけですが、そこには完成されたスタイルがあります。そのスタイル=型は千利休がたどり着いた理想系でもあるわけです。

つまり松村さんの自由さは裏打ちされた技術と知識によるものとも言えると思います。

お茶とは何か、なぜ、茶の道へ入っていかれたのか?たくさんのことを語ってくださっていますが、とりわけここで注目しておきたいのは、「おもてなし」という概念です。松村さんは、「相手と自分の間にある感覚」と話をされています。

おもてなしは英語で言うとhospitalityです。これは客をもてなす主人を意味するhost(ホスト)と同じ語源です。つまり、おもてなしはホストとゲストを区別することから始まります。「お・も・て・な・し」とか言って見事オリンピックがやってきましたけど、本来は少しニュアンスが異なります。

松村さんの話に戻りますが、おもてなしは相手と自分の間にあるわけですから、そこには緊張感も生まれます。事実、お茶会は気も張ります。お茶会は日常ではありません。非日常なのですから。昔のこと、にじり口と呼ばれる小さな入り口から入る四畳半の空間には、刀を持っていくことはできませんでした。そこで行われるのは、刀による斬り合いではなく、精神による切り合いだったのかも知れません。

松村さんはお茶の文化を広めたいとも考えていらっしゃいます。LIVEの後半では「これもお茶なの?」と言った活動も紹介されていますから楽しんでね。ほにゃららLIVEもお茶の理解には役に立つと思います。

2020年8月29日



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