夜明けは天使とうららかに 1-4
〇 〇 〇
それから、お父さんとよく話して、とりあえず今日は学校に行くことにした。またあんなことがあったら、と思うととても怖かったけれど、その時は早退でもなんでもしていい、と約束した。
それから、天使もついてきた。
天使──リセの話によると、彼女の姿は僕以外に見えないらしい。実際、玄関を出る時お母さんが見送ってくれたけど、隣にいる金髪の美少女には視線も向けなかった。
リセが一緒に学校に来てくれるのは、少し心強かったけど、他の人には見えないから会話ができなくて困った。僕はリセの方をチラチラ見てしまっていて、バレていないとは思うけど、やたらと右側を気にする人に見えていたらどうしよう、と思っていた。
でもそんなのは登校中だけだった。
それまでいつも通りに騒がしかったのに、僕が教室に入った途端、みんな水を打ったように静まり返った。それからヒソヒソと話し声が聞こえて、みんな僕の方を遠巻きに見ている。
僕はリセが他のみんなにも見えているのかと思った。だから思わずリセの方を向いたんだけど、リセは首を振った。それから、怒ったような顔をした。
「菖太さん、今からでも逃げて──保健室に行った方が良いかもしれません。……悪意を感じます」
それってどういうこと? と僕が思わず口に出しそうになった時、僕の背中が叩かれた。
僕は昨日みたいに何か貼られたんじゃないかと思って、すぐに確認してみたけど、何もなかった。
代わりに
「うわっ江藤、お前勇者かよ!」
と声がする。昨日、江藤君と一緒に笑い声を押し殺していた子。
「……逃げましょう、菖太さん」
リセが僕の手を取って早足に歩き出す。
僕は引っ張られるままリセの後をついていく。周りにはリセが見えないはずだから、僕は不自然な格好になっているはずだけど、クラスメイトは気にしていないみたいだった。
クラスから遠のいていく僕の背中に女子の悲鳴が聞こえる。
「あいつ触った手で近づかないでよ江藤!」
半分本気で、半分楽しんでいる。それが分かった。
僕は、リセがいてくれて、本当に、本当に良かったと、心から思った。
保健室に着くと、僕はリセが言った通りのことを先生に言った。
『実は昨日からクラスメイトに嫌がらせをされていて、それが今日も続いているようだから、もう教室にはいられないと思ってここに来ました。今日の朝、お父さんと相談してそういう時は早退しよう、ということになっています』と、大体こんな感じのことだ。
保健室の先生はすぐに担任と僕の両親に連絡してくれて、お母さんが学校まで迎えに来てくれることになった。でもそれまでの間に、担任の先生とお話することになった。誰にどんなことをされたのか。上履きの中に画鋲を入れたり、体操着袋を隠したのが江藤君だという確証はなかったけど、今までの様子からしてきっとそうだろうと話した。担任の先生は「よく言ってくれた」と僕のことを信じてくれた。
涙まみれで話したことだったから、すぐに信じてくれたのかもしれない。
でも、担任の先生はこうも言ってくれた。
『こういう立場になった時、誰にも言えずにどんどん悪化してしまう場合が多い。それなのに勇気を出してすぐに言ってくれたから、先生も対応できる。よくやった』
大体こんな感じの事だった。
僕は泣きじゃくりながら話を聞いていた。その間、リセは背中をずっとさすってくれていて、その体温が優しくて余計に泣けた。
泣き止んだ頃にはお母さんも迎えに来てくれて、先生たちに頭を下げて学校を後にした。
僕はお母さんが嫌がらせのことを知ってしまったのが気がかりだった。でも、お母さんは帰り道、お父さんみたいに謝るのだった。無理させてごめんなさい、と。それから、私のことを気遣ってくれてありがとう、と。
僕は今日何度目か分からないけど、また泣いた。僕の傷を話す度に、誰かに僕の傷を認めてもらう度に、心の奥がジンとして泣けてくる。
それを見て何も感じないお母さんではないだろうから、きっと心の中では色んなことを考えたと思う。でもお母さんはそれを顔には出さなかった。代わりに僕の手を握る力を優しく強めた。
リセはその間も背中をさすってくれた。
昨日まで独りぼっちだと思っていたのに、不思議だ。たった一人の天使のおかげで、僕は温かさに包まれている。
お父さんが家に帰って来てから、これからの話になった。
学校に行くかどうか、という話だ。
この話を持ちかけられて、正直驚いた。行かない、という選択肢があるんだ、と思って。
とはいえ、本当に学校に全然行かない、という選択肢だけでもないらしい。別室登校、という形があるらしくて、それだと僕は登校・下校する時間を選べる。しかも別室だから行く場所は教室じゃない。つまり、クラスのみんなに会わなくていい。
他にも、フリースクールを提案された。フリースクールはまだお父さんも探しているところで、勉強が中心のところや、みんなでレクリエーションをするのが中心のところなど、場所によって様々らしい。
『学校に行かないといけない』という枷が急に外れて、僕はどうしたら良いか分からず戸惑ってしまった。お父さんもお母さんも、「ゆっくりでいいよ」と言ってくれたから、とりあえず明日は学校を休むことにした。先生にも話せたとはいえ、あの教室に戻る勇気は、まだ出ないから。それに、戻ってもあまり良いことがあるとは思えなかった。もし戻って、何も嫌がらせをされなかったとして、待っているのは今まで通りの空気みたいな生活だから。
逃げられるなら、逃げてしまいたかった。
「今日は、菖太さんにとってどんな一日でしたか?」
自分の部屋に戻った後、リセに聞かれた。
「……なんだか色々あったけど、ビックリした一日、かな。リセが来たのもそうだし、お父さんに話したのも、先生に話したのも、お母さんに話したのも、全部泣いちゃってビックリした」
「よく頑張りましたね」
リセはそう言って僕の頭をポンポンと撫でた。見た目は同い年くらいの女の子に頭を撫でられるなんて気恥ずかしい気もするけど、リセに撫でられるのは不思議と心地良かった。
「プラスかマイナスかで言ったらどちらでしたか?」
「……プラス、かな。そんなこと聞いてどうするの?」
「自分で自分の心の中身を出すことが大事ですから」
リセはふわりと笑う。
「菖太さんにとって、今日が良い日になって良かったです。何か気にかかることはありませんか? 安心して眠れそうですか?」
何も無いと言ったら、嘘になってしまう。
喉元につっかえた言葉を、吐き出してみた。
「……僕、逃げてもいいのかな」
その先は、上手く説明できなかった。
「僕、学校には、あんまり行きたくない。それは昨日や今日みたいなことがある前から、ずっと。でもそれでも我慢してきた。……それなのに、こんなに簡単に休んじゃって、いいのかな」
ベッドに座って俯く僕の視界にリセが入り込んでくる。リセが僕に対して跪くように座り込んだから。
「菖太さんは、今までのご自分の努力を否定するかのようなお気持ちになっているのですね」
真っすぐ自分を見て言われたその言葉が、ストンと心の中に落ちた。
「でも、それは違いますよ。菖太さんは、今までとても頑張ってきた。それは紛れもない事実です。頑張って、頑張りすぎて、そしたら疲れてしまうのも当然じゃないですか。だから、今はゆっくり休んでいいんですよ」
リセは、やっぱりふわりと笑う。
「正直なお気持ちを話していただいてありがとうございます。今日はお疲れでしょう。きっと良い夢が見られますよ」
「そうだといいな」
僕は一言呟いてベッドに潜り込んだ。
「おやすみなさい」
リセが僕の目に手をかざすと、瞼が途端に重くなってきて、気づけば僕は夢の中を漂っていた。
お父さんとお母さんと公園に出かける夢だった。お母さんがサンドイッチを作ってくれて、それをみんなで食べた。みんな笑っていて、何も怖くなくて、ただ陽だまりに包まれるような、そんな幸せな夢だった。
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