『エンドウォーカー・ワン』第46話
「はあぁぁぁ……」
情報部に宛がわれたマンションの一室でイリア・トリトニアがベッドに寝転がる。
紅色に染まり、火照った顔を両手で覆い隠して熱い吐息を漏らす。
その近くのサイドテーブルにはフォリシアから借りた恋愛小説が転がっていた。
就寝前の僅かな自由時間に読書を嗜んでいた「ノイン」の真似事で始めた読書だが、想像力豊かな彼女が本の虫になるのにそう時間はかからなかった。
今夜とて少しだけ読み進めるつもりが、気が付けば時刻は既に深夜。
明日の為にも寝なければならないというのに、ページを捲る手を止められずにこの有様だ。
物語に入り込み、感情移入が過ぎるあまりに終盤はポロポロと涙を流しっぱなしだった。
それも先ほどまでのこと。感情の波は少しずつ引いていたが、彼女はベッドに身を横たえてその余韻に浸っていた。
「でも、あんなこと……」
持ち主曰く「一般向け」の小説ではあるらしいが、初心者のイリアにとって鮮明に描かれる男女の営みは刺激的すぎた。
あの描写を思い出すだけで顔が熱くなり、細く引き締まった上腹部が疼いた。
「はしたないな……でも、ちょっとだけなら」
イリアはベッドから素早く起き上がると、裸足のままペタペタと室内を行き来して念入りに戸締りをする。
「よし」
イリアは要所要所を指差し確認して回り、作業テーブルのメッシュチェアーに腰を落として先ほどの小説を拾い上げる。
読み終わった筈の本には紫色のしおりが挟んであり、彼女は心臓の鼓動が早くなるのを感じながらそのページを開いた。
それはこことは異なる異世界での物話。
幼馴染の少年と生き別れたヒロインはどこか夢見がちな少女だった。
いつか自分を王子様が迎えに来てくれる。そんな浮世離れした思いを胸に彼女は成長し、冒険者となる。
彼女がある村からの依頼を受け、洞窟を根城とするモンスターの討伐隊に加わった時のこと。
そう広くはない洞窟内でモンスターの群れと冒険者たちが正面衝突し、数で劣る彼女らは撤退を余儀なくされた。
その混乱の最中、一団からはぐれたヒロインは壁際に追い詰められていた。
薄暗闇を蠢くおぞましい数のモンスターを相手に攻撃魔法でなんとか応戦するが、身体を引き裂かれ、腸わたを引きずり出されて惨殺される未来しか見えない。
絶望が彼女の心身を蝕んでいき、杖を弾き飛ばされてそれはより顕著なものとなる。
冷たい岩肌にへたり込み、最後に残された体温さえ奪っていく。
それでも死に抗おうとするが、恐怖が胸に張り付いて心臓の鼓動を阻害する。
その命の炎が潰えようとした次の瞬間、何の前触れもなくワーム型モンスターに閃光が奔り抜ける。
緑色の体液が飛び散り、細切れにされた肉塊がぼとぼとと音を立てて地面に転がる。
100匹もの大群が壊滅するのにそう時間はかからなかった。
無数の骸を前に、その少年はマフラーをはためかせながら立ち尽くしている。
それは、かつて少女が幼馴染に贈ったものだった。
――遅くなったな。迎えに来たぞ。
そして彼が振り返ると、少女が長年追い求めていた少年の姿があった――
「はああ……素敵」
多くを知らぬイリアは、そんな手垢のついたストーリーにさえ夢中だった。
この後の展開はよく知っている。
危機を脱していないというのに彼に迫られ、ヒロインは嫌々ながらにそれに応じてしまう。
その描写がいやに官能的で本当に一般向けなのかは微妙なところだが、普段仲良くしているフォリシアお勧めの作品ではあったし、年上としての無駄なプライドが手汗で湿る手を進ませる。
「うわー……何度読んでもすごいなぁ……うわぁ……」
完全に頭に血が昇り、正常な思考力を奪っていく。
愛撫だけでここまでの快楽を得られるのだろうか。
戦争により完全に俗世から隔離されていたイリアは興味津々な様子で、物語のヒロインに自分を重ねて服の下からでもはっきりと主張する乳房を揉みしだく。
「んっ、はぁ……」
思わず吐息が漏れた。
身体を洗う時に触ったりはするが、今は神経が鋭敏になっていて鈍い刺激が脳に駆け抜ける。
彼女の細い手は自らの火照った身体を慰めるように身体中を這いずった。
精神回路などは既に焼き切れたのだろうか。理性的な光を放つ瞳はとろんと融け、快楽を貪ることに夢中になる。
もっと気持ちよくなりたい――もっと。
混乱の時代が彼女を日陰者として育て、そのような作法を全く知らぬ初心な彼女は自分の中に生まれた熱の抜き方を知らなかった。
「んっ……んぅ……」
物足りない。
快楽の波が寄せてはかえすのだが、身体が次第に慣れてしまいもどかしさだけが支配していく。
「んと、こういう時は好きな人を思い浮かべればいいって何かに……」
イリアはインターネットで聞きかじった知識を元に、下腹部に恐る恐る手を伸ばした。
思い浮かべるはイルデ州の幼馴染ベルハルト・トロイヤード。
「好き」だと思っていた相手のことを想い、熱が入るものだと思い込んでいたが思考が途端に鮮明になった。
結局のところ、自分は彼のことをどこまで知っているのだろうか。
幼き日に分かれ、軍に入ってからは影として支えてきた。
それでも戦う機械と化していたベルハルトは全く自我というものを表に出さず、イリアは膨れっ面で不満に思ったこともある。
イリアは彼のプライベートを窺い知れない時を経てもなお、故郷イルデの記憶を引き摺っていた。
「――ベルは私のことを好きだ、って言ってくれた。でも、私の本当の気持ちはどうだったの……?」
自分を好きでいてくれるベルハルトのことは好きだが、今この胸に芽生えている感情とは程遠いもののように感じる。
子どもの頃の彼女は恋に恋する少女で、誰かを好きになることで自らの欠けた欲求を満たそうとしていた。
きっと、どこかで錯覚していたのだろう。
恋なんて所詮フィクションの中の出来事で、相思相愛のカップルなどそうはいないのが現実だろう。
うん、そうに違いない。
男性経験が皆無なイリアはそう自分に言い聞かせ、姿勢を正して息を整える。
ショーツに残った不快感が冷め切った身体に羞恥の炎を宿し、先ほどの行為がフラッシュバックのように呼び起こされ、彼女の顔に朱が差す。
「あ、あ、あ……私ったら、いったい何を……」
隠す相手も居ないというのに、イリアは両手で顔を覆い机の上にへなへなと突っ伏してしまう。
「イリアせんっせーい、やらしい雰囲気になってましたあ?」
突如、閉めていたはずの扉が勢いよく開き、フォリシアが雪崩れ込んでくる。
「してないっ! 何もしてないよ!」
「まあまあ、適度なストレス発散も大切だから。やり方教えてあげるよ?」
「い・り・ま・せ・ん!」
イリアは枕に手を伸ばすと、侵入者に向けてそれを勢いよく投げつける。
「あはは。やっぱりイリア先生は性格も可愛いなあ」
フォリシアはそれを軽くいなすと、数歩踏み込むと距離を一気に詰めて自分の上官をベッドの上に押し倒す。
「ふぎゃっ」
魔女は虫が潰れたような情けない声を上げ、馬乗りとなったフォリシアを見上げる。
「じゃあ、ゆっくりと仕込んであげますからねー。はあ、はあ……」
フォリシアは妖艶な笑みを浮かべてペロリと舌なめずりをすると、イリアの両腕を押さえつけて唇を奪わんと顔を近付ける。
「いーやぁー! 正気に戻って!?」
イリアの叫び声が夜空に虚しくこだました。
「……アレク、ボリューム弄ったか?」
「いえ? それよりもレックスさん、見てくださいよ」
「おお……これはなかなか……むふふ」
隣の部屋では男子二人がお楽しみ中だった。
執筆・投稿 雨月サト
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