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彩りを連れて 五

 一度だけ、母が酔いつぶれた日があった。

 それまではいつだって酔いつぶれるのは父の方で、馬券が当たらないとか、上司が自分のことをバカにするとか、お前だって俺のことを蔑ろにしてるんだろとか、お酒で理性を手放して、悪口ばかり言っていた。

 家計を支えているのは母の方で、我が家の生活は母によって成り立っていた。父は自分で稼いだお金は全てギャンブルにつぎ込んでしまって、当然のように当たらない。けれどギャンブルに取り憑かれた父は決してそれを止めなかった。昼間からパチンコに出かけ、夜は酒をあおり、時折思い出したようにバイトに行く。正直、父がいない時間が恋しくてたまらなかった。

 でも、父は突然いなくなった。

 前日の夜、母と口論しているのは聞こえていた。いつもは一方的に愚痴を聞かされているばかりの母が、珍しく怒鳴っていて、父もそれに逆上するように怒鳴り返していた。音が反響するからか、怖くて意味を理解したくなかったからか、何を言っているのかはよく分からなかった。ただ、父と母の怒気は耳に刺さって、心の中に恐怖として刻まれた。

 次の日、寝付けなくて早すぎる時間に起きてしまった私は、家を出ようとする父を見つけた。かなりの大荷物で、ちょっと外出するような出で立ちではないことくらいすぐに分かった。

「お父さん……?」

 どうして良いのか分からなくて、疑問符の浮かぶままに口にすると、父は私を見て顔をしかめた。けれど何か考え直した様子で、私と目線を合わせるように屈むとどこか馬鹿にするように笑って言った。

「お前は可哀そうだな」

 心に傷がつく感覚というのがハッキリ分かった。

「あんな母親の元に生まれて、これからあいつに縛られて生きていくんだ。俺には耐えられねえ」

 自分の事をすっかり棚に上げて放たれたその言葉に、様々な感情が湧いてきたけれど、当時の私にはその名前が分からなかった。

「じゃあな」

 父は一欠片だって未練を感じさせずに家を出て行った。


 母が酔いつぶれたのはその日だった。

 いつもより早く家に帰って来た母は「様子がおかしいから今日は休みなさいって言われたの」と言うなり酒をあおった。

 母が酒を飲んでいるところを初めて見た。そして、母もまた、お酒に任せて鬱憤を吐き出した。

「全部私のせいみたいに言って」「ずっとあの人を支えてきたのに」「別の女を作って」「あの人は破滅する。絶対に」「こんなに頑張って来たのに」「ねえ、あなたなら分かるでしょう?」

「私を置いていかないで」

「私を一人にしないで」


「あなただけは私を裏切らないで」


 母は子供みたいに泣きながら私にそう言った。

 母の発言から、父が母を裏切ったことは、よく分かった。私が母の拠り所になったことも。

 私は、絶対にお母さんを裏切っちゃいけない。

 それが胸に強く刻まれた。


 最初の頃は、お母さんのお手伝いから始めた。ありふれた幸せな生活だった。手伝いをするとお母さんは必ず「ありがとう」と言って笑ってくれる。それを見ると『大丈夫。私はお母さんに応えられてる』と思えた。

 ただ、いつまでもそれだけ、というわけにもいかなかった。

「真緒、中学受験をするのはどうかしら」

 お母さんは、私が小学五年生になった頃から、勉強に重点を置くようになった。幸い、私はある程度勉強ができる方だったので、塾に通い始めるとすぐに伸びた。学力をつけていくと、母は志望校のランクを徐々に上げていった。

『失敗できない』

 その想いは日に日に増していった。

『お母さんに応えなきゃ』

 そう思うほど、躓くことが怖くなった。

 友達を作ることに不安を覚え始めたのも、その頃だったように思う。

 幸い、と言うべきなのか、お母さんは学校での私の様子をあまり聞いて来なかった。母の理想通りの志望校に合格した私はあまり友達を作らないようにした。

 人と話さなくなると、特に趣味もない私は勉強ばかりするようになった。おかげで成績は良かったけれど、近寄りがたいイメージがついてしまったのか、クラスメイト達は私を呼ぶ必要がある時、遠慮がちに「中村さん」と呼ぶようになった。

 それは、実際ちょっと寂しかったけれど、クラスメイトに距離を置かれている内は衝突するようなこともないだろう、と思うと少し気が楽になった。

 グループワークや体育の二人組で余るのも、最終的には先生がなんとかしてくれるし、嫌われているわけではないのでその場にいることくらいはできる。

 ただ、私は本当にその場にいるだけで、ほとんど幽霊みたいだった。みんなに見えているのに、話すことができない幽霊。

 高校に入ってもそれは変わらなかった。

 私は一人で過ごすことに慣れていたし、そのせいで人と関わって失敗することが怖くなっていた。

 だから、晴くんたちと同じ班になって、すごくビックリした。そこは目が眩むほど明るい場所だったから。目が眩んで、頭にまで響いて、冷静な判断を失うほど。

 私は、お母さんに応えなきゃいけない。

 それなら、今まで通りに勉強しなきゃいけない。

 そこに、晴くんたちとの時間が入る余地は、ない。

 だから、文化祭の間だけだ。

 あの光に包まれていて良いのは。


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