『エンドウォーカー・ワン』第49話
同刻。
ノーストリア南部方面イルデ支部。
南北戦争の際に幾度となく戦火に曝された旧サウストリアのイルデ州は世界の大穀倉地帯であり、牧歌的な風景に心寄せて訪れる者は多い。
その街は季節折々に様々な表情を見せ、人と共に多くの命を育んできた。
故に先の戦争では真っ先に侵略の対象となり、多くの景色や物が破壊された。
「……」
この街に10歳まで住んでいた灰被りの魔女、イリア・トリトニアは久しぶりに帰郷していた。
今は亡き両親から受け継いだ実家の周りには「進入禁止」の古びたテープが張り巡らされている。
父と共に毎年塗り替えていた外壁には無数の銃痕が残され、塗料が所々剥がれてきていた。
一度はノーストリアに渡り、長い年月を経て戻ってきた我が家。
彼女は一時間後に迫る大事な会議を控えてどうしてもここを訪れたかったのだ。
「まだ、修繕すれば住めるかな」
イリアは錆が浮かんだ金属製の門を手でなぞりながら呟いた。
頭に浮かぶのは記憶の底に沈んでいた家族との幸せなひととき。
頼れる父がいて、優しい母がいて。近所には意地悪だけど仲の良い友達が居て。
そのまま自分でいても許される世界。
彼女は泡沫の思い出に浸りながら、消えていく時を懐かしむ。
人は過去に生きることは出来ない。
思い出に溺れ、共に沈んでいくだけならば私は――
「……ベル」
彼女は青年を想い、空に手を伸ばした。
彼が一緒ならば、この過酷な世界も生き残れる。そんな確信があった。
「この度は貴重な時間をありがとうございます。改めまして、私はノーストリア情報部特務大尉、レスティア・シャーロット」
「同じく少尉アレク・フェルナンドです」
小会議場のテーブルを挟み、二者間で固い握手が結ばれた。
「国際平和監視機構ドミニク中佐だ。悪いが堅苦しいのは肩が凝ってなあ、これでいかせてくれ。ヴァッツ、どうかしたか」
「……いえ」
彼は新調した伊達眼鏡の端にイリア・トリトニアを捉えて凍り付いていた。
あの時、サービスエリアで見かけたのは本物だったのかと、改めて世間の狭さを感じる。
解放戦線の元メンバーであることは知られていないため、ここで余計な情報を相手方に与える訳にもいかず、口を噤む。
「置かれた状況は様々ですが、それは追々。少年、頼んだ」
「先輩、だから俺は……ああ、まったく。ええと、失礼」
童顔のアレクはごほんと咳払いを一つ。
「我々は現在共同作戦を計画していますが、その前に互いの手札を改めて確認したく。そのかたが『ハウンズ』の?」
「ああ。お前さんたちがご執心のベルハルト・トロイヤードも一緒だ。そちらに控えている嬢ちゃんが噂のイリア・トリトニアで間違いないか」
「その通りです。では、確認できましたところで目標に至るまでの手筈ですが――」
ふと、イリアが音も立てずに長い睫毛に埋もれた目をゆっくりと見開く。
その佇まいは全身の毛が逆立つほど神秘的で、美しい顔立ちと相重なり見る者を寄せ付けない空気を醸し出していた。
あの時見た女性と本当に同一人物なのだろうか。ヴァッツは彼女に疑惑の眼差しを向けざるを得なかった。
「……?」
すると彼と目の合った麗しい魔女は小首を傾げてみせた。
ベルハルトが言葉少なげに語るイリアは子どもっぽく、人に依存することが多い人物だと聞かされてきたヴァッツは情報の齟齬で頭の中をぐちゃぐちゃと掻きまわされている思いだ。
仮に本人ならば、ベルハルトの名が出た時点で何らかの反応がある筈なのだが、目の前で不思議そうに紅色の宝石で見つめてくる彼女にはその気配が微塵も感じられない。
「中佐、少し宜しいですか」
堪え切れなくなったヴァッツが手を挙げて言葉を遮る。
「質問は後で受け付けると言っただろう」
「まあ、そう言わずに。今のところで気になるところがありましたか?」
口の端を折るドミニクに進行役のアレクは片手で断りを入れた。
「魔女殿はベルハルトと旧知の仲だと聞きます。彼はあの島での戦闘ののち、貴女と連絡が取れないと心配していた」
「心配……? 彼がですか?」
ヴァッツの一言に酷く冷たい感情が返ってきた。
それは背筋が凍り付くようで、同時に不純物を全て燃焼させたような葬儀場の空気が鼻につく。
「まあ、あの人は人間だからそれも仕方ないことですね。私は長年護衛対象として見守ってきた彼がこのようなことで果てるとは思いもしませんので、全く心配などはしなかったのですが」
イリアはさも自分が生物として上であると言いたげにふんぞり返り、短く息を吐いてみせる。
その様や御伽噺に登場する高慢な魔女そのもので、初対面で舐められまいと辛うじて数ミリ残った魔女の誇りをかけ、完璧ともいえる演技を以てしてそれを知らしめようとしていた。
事情を知っていて一応は止めた情報部の二人は何食わぬ顔で成り行きを見守っていた。
幼少期に彼女の幼馴染が言っていた「嘘は武器だ」の格言が今に活きてきている。
自らの自由奔放ぶりによるところが大きいが、ここのところ「灰被りの魔女」の名に傷が付き始めているのを本人も感じ取ってはいた。
この行いに特に深い意味はないが、絶賛急落中の株を気持ちだけ持ち直す滅多とない機会だ。
表面はあくまでも冷淡に荘厳で。
ここから彼ら国際平和監視機構と手を組み、少しずつ態度を軟化させて信頼と信用を得るという算段だった。
それも情報部のメンバーからは満場一致で「余計なことはするな」と反対された。
今や「ポンコツ魔女」だとか「燃費効率最悪大飯喰らい」だとか、不名誉な称号ばかりを与えられており、彼女の自尊心はヤスリ掛けされてひどく擦り切れている。
何かと見栄を張りたがる幼子のように心の中ではしたり顔を浮かべつつ、表層だけは崩さずに再度相手側をちらりと見やる。
「……」
そこには理性の塊で造られたような顔立ちの「ヴァッツ」と呼ばれた青年が思い切り顔顰めていた。
――えっ、どういう感情? えっ?
思い付きのくだらない戯れがバレて心証を損ねたのだろうか。
それとも距離感を見誤って引かれているのだろうか。
一早くベルハルトの生存を知り、浮かれていたイリアはそこでようやく一呼吸置いて冷静になった。
遠くに放り投げていた置き去りにしていた羞恥心と理性が戻り、どれだけ自分が阿呆な振る舞いをしていたかを実感する。
「……ぅ」
それでも唇を噛み、身体の中から昇ってくる血潮を必死で抑えようとした。
端正な顔が朱色に染まるのをすんでの所で踏み止まり、誰にも悟られないように小さく息を吸い込んで呼吸を整えようとする。
「……魔女殿。失礼だが、以前サービスエリアでお見掛けしたことが――」
不意に制止し、僅かに震えているイリアにヴァッツが遠慮気味に声をかける。
「負けたね」
「負けましたね」
レスティアとアレクが顔を見合わせ、喉元に溜めていた空気をようやく吐き出す。
頭は切れるが場の空気を読むことを不得手とするドミニクは話の流れがさっぱり分からなかったので、取り敢えず沈黙を保ち体を保っていた。
「……見てました?」
「ええ、大盛りのパフェをいただいているところをしっかりと」
イリアがこしらえた即席の仮面が長持ちするはずもなく、年頃の女性らしい顔が見え隠れしてしまう。
その様子にどこか安心したヴァッツは極めて穏やかな表情で「魔女殿も人間なのだなと思いました」と魔女としての威信を跡形もなく打ち砕いていく。
「――ッ」
彼女は顔を手で覆い、目の前の机に突っ伏す。
そして照れ隠しなのか足で床をずかずかと蹴りながら声にならない声を上げる。
会議の緊張感には程遠い緩やかな時間が過ぎ去っていく。
執筆・投稿 雨月サト
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