『エンドウォーカー・ワン』第51話
年中降り続けている雨の切れ間にうら若き男女が街路を行く。
先ほどまで差していた雨傘を閉じ、自然と距離の近くなった彼らは言葉を交わしながら異国情緒溢れる街並みを堪能していた。
二人が出会った頃はこんなにも心を許せる仲ではなかった。
月日を重ね、幾度の苦難を共に越えて人は互いに惹かれ合う。
その信頼故にレックスは自分の気持ちに蓋をし、本当の気持ちをひた隠しにしてきた。
いや、自分にとって本当の想いとは何なのだろうか。
数年前に亡くした恋人が人生の全てだと思っていた。彼女を忘れることなく想い続けることが今を生きる自分にできることだと。
ところがどうだ。
ここのところのレックスは、数か月前に出会った女性のことばかりを考えている。
後ろめたさは常に付き纏うが、人を求めることは止めることができない。
フォリシアの一挙手一投足に激しく心を揺さぶられ、残り香に何度脳を焼かれたことか。
「話聞いてくれてありがと。少し気が晴れたかも」
小麦色の彼女は先ほどまでの陰鬱とした表情とは打って変わり、目を細めて微笑むと幻想的なアメシストの宝石でレックスを見つめた。
「あ、ああ」
レックスは蠱惑的とすら感じるようになった彼女の顔――いや、姿を直視することが出来ずに目を逸らす。
近くにいるだけで胸が真綿で締め付けられるように痛み、頭に血が昇って冷静な判断ができなくなる。
ひたすらに真っすぐで、純粋で稚拙な感情。
互いを否定し、ぶつかり合って時には拳も交えた。
――だから、この感情はきっと。
彼の想いはたおやかに佇むフォリシアも薄々感じ取ってはいるのだろう。
この先にどれだけ過酷な道程が待っていようとも、共に歩む彼が――仲間がいてくれればそれだけで前に進んでいける。
赤の世界でただ泣き叫んでいる少女はもうどこにも居ない。
「フォリシア、あのな」
意を決したレックスの言葉を遮るように風が吹き抜け、彼女の仄かな光でも存在感を示すブロンドが揺らめく。
追憶の彼方へ想いを馳せていたフォリシアは長くなってきた前髪を手櫛で整え、言葉の続きを促すように表情を緩める。
「……っ。な、なんでもない」
だが、初心な彼は朱が差し込んだ顔を逸らしてしまい、彼女はいま一つ煮え切らないレックスに不満そうに眉を尖らせて片頬を膨らませた。
――何故だろうか
フォリシアにとって、その瞬間瞬間が物凄く輝いていて、まるで人生の宝物を積み上げているような気がして。
あの頃――家族がまだ健在の頃のように心が休まった。
深い安堵感と共に幼いままの自分への不甲斐なさがとめどなく湧きあがる。
彼のことを意識してはいけなかった。
初めて出会ったあの時から間違いを重ね、辿り着いた先がこの感情だ。
――わたしは馬鹿だ。何も学んでなどいない。
大切な人が出来てしまうことを極端に恐れていた。
自分という存在が、自分だけの存在ではなくなる時が来るのが堪らなく嫌だった。
存在意義を他人に見出した時、自分は今度こそ心臓を失う。そう言い聞かせてきたのに。
どうして、こんなにも求めてしまうのだろうか。
「……フォリ、そんな顔してどうした」
心の中を自らの手でぐちゃぐちゃに掻き混ぜ、感傷に浸っていたフォリシアを青年は心配そうに覗き込んでくる。
彼女はレックスならばそうするであろうという自信があった。
このような感情の波に揉まれるようならば、いっそのこと堕ちるところまでおちてやろうか――怠惰の女神が手招きをする。
考えることを止め、本能の赴くがままに刹那的な快楽を貪る。
ああ、それはどんなに気持ちの良いことだろうか。
「おい、大切な作戦前だ。先生に見てもらったほうが良いんじゃないか?」
レックスはフォリシアの両頬を無遠慮に掴み、息がかかるほどの距離に引き寄せる。
輝くことを思い出した大きなアメシストは熱を帯び、覗き込む者の精神を堕落させるかのごとく艶やかに潤んでいた。
「……泣いてるのか?」
レックスは彼女が必死に想いを殺しているのも関わらず、どうしてそんな顔をしているかが不思議で堪らない様子だ。
気紛れな晴れ間が顔を覗かせ、柔らかな日差しが二人だけに降り注ぐ。
それは鮮やかに、艶やかにフォリシアという一人の女性を照らし出し、褐色の頬に差し込んでいた朱色があらわになる。
ドラマなどのフィクションならば、その姿に魅了された男性が強引な行為に及んでしまい、関係性が一転するところだが――そうはならなかった。
だから、二人の物語はきっとここで終わってしまうのだろう。
「……ごめっ」
レックスはフォリシアを拘束していた両手を咄嗟に離し、片手で口を覆うと視線をあからさまに逸らした。
彼女は俯いたまま、ブロンドの切れ間から様子をうかがう。
動揺の色を隠せずに慌てふためく彼にどこか冷静さを取り戻し、深呼吸をして感情を「リセット」した。
そして改めて自分を振り回しているレックスを見やる。
エターブ社に入った時の弱々しい面影は今やどこにもなく、顔付きはすっかり男性らしくなり、猫背気味だった姿勢は鉄骨を通したかのように真っ直ぐだ。
心がこうも突き動かされるのは、その過程を知っているからだろうか。
だとすれば、今彼女の中に芽生えているその感情は――
「フォリシア?」
「ううん、何でもない。ちょっと昔のことを思い出して、ね」
彼女の真意を包み隠すように分厚い雲が空を覆い、小雨を吐き出した。
執筆・投稿 雨月サト
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