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短編小説『イーゼルを開いて』第6話
「やり過ぎた……」
神崎 いのり(かんざき いのり)は後悔していた。頭は重たく、思考は酷く不鮮明だ。
若いころはオールしても平気だったのに、と鏡の前で素顔の自分を見、落胆する。
かつての彼女はモデルとして華々しい生活を送っていた。ノーメイクでも瑞々しい肌に整った顔立ち、それに女性らしいボディライン。世の男性はいのりに魅了され、それなりの立場まで登り詰めた頃に彼女は引退した。
皆、若くて初々しい女性が好みなのだと、彼女は視線の端で過去の自分を見切り、業界から去っていった。
過去の栄光が足首を掴むが、目前には現実が迫ってきている。いのりは足を振り上げ、それを思いっきり蹴飛ばし、歯を食いしばって現実と立ち向かうのだった。
数時間後。
いのりはくたびれた中年サラリーマンたちを詰め込んだハコから飛び出て、会社近くの駅構内の階段を下っていた。
下から利発そうな顔立ちの若い女性が一段飛ばしで駆け上がってくる。口元はきりっと結び、キラキラとした大きな瞳は上を見据えている。
「若いって羨ましいわ……」
いのりがぼそりと呟くと、駆け上がっていた女性は動きを止めようとした。だが靴のヒールが階段の段鼻に引っ掛かり、体勢を崩してしまう。
「危ない!」
いのりは咄嗟に手を伸ばし、細い腕を思いっきり掴んで引き寄せる。肩に掛けていたバッグが階段を転がり、女性が履いていた靴が脱げ落ちた。
「……Kさん?」
その女性は呆けた顔でいのりのハンドルネームを口にした。
「えっ、その声……スイなの?」
二人は抱き合うような姿勢のまま固まる。
人が集まってくるのにそう時間はかからず、彼女らは素早く離れると気まずそうに着衣を正すのだった。
「まさか毎日のようにすれ違っていたとはね」
終業後。
昼夜問わず忙しく働くビジネスパーソンたちで賑わう大手讃岐うどんのチェーン店。そこで二人は丼を囲んでいる。
「では改めて私から。飯野 瑞希と申します。まだ上京して一か月も経っていないのでよろしくお願いしますっ」
瑞希が艶やかな髪を勢いよく下げてお辞儀をする。
「ああ、そんなに畏まらなくてもいいって。あたしは神崎 いのり。いのりでいいよ」
「では、いのりさんで」
「ま、いいか」
そして素うどんでの宴が始まる。
いのりは前職を隠し、最近転職して張り合いのない毎日だと言う。
瑞希はいのりのことを大人の余裕があって羨ましいなと思う。そして、自分が置かれている胸の内を曝け出した。
「分かる。分かるわあー。あたしも若い時はそうだったなあ」
「いのりさん、十分若いじゃないですか」
「ありがと。でもね瑞季、それは通過儀礼みたいなものよ。若い時に苦労して、苦労して……人は芯のようなものを形成するの」
いのりが器用に箸でうどんを一本掴むと、丼の上で静かに振るってみせる。
「若いうちは柔軟性があるから耐えられるけど、苦労せずに三十、四十になった奴らの末路はこう」
いのりが箸を閉じると、折り重なっていた一本の麺がプツリと切断され、琥珀色のスープに落ちていく。
「加齢で柔軟性を失い、芯も育っていない人間はこうなるの。厳しい言い方だけど、今の会社は簡単に辞めてはダメよ」
「わ、分かりました」
険しい表情のいのりに気圧され、瑞季はごくりと息を飲んだ。
「まあ、堅苦しい話はここまでにしよ。昨夜の試合は熱かったねえ」
「そうそう、Kさんのアシストが冴えていて――」
重苦しい話題を払いのけるように二人は共通の趣味の話で盛り上がる。
歳の離れた新しい友人にいのりは心躍り、明日からの退屈な業務にも気合いの入る思いだった。