『エンドウォーカー・ワン』第28話
青年は静けさで目が覚めた。
彼はどのくらい眠っていたのだろうか。
硝子窓から零れ落ちる陽はすでに高く、そう早い時間ではないことを告げている。
「イリア?」
彼は傍らに居たはずの存在を探すが、見通しの良い室内に気配は見当たらない。
焦点の合わない青い目を擦りながらこんなにも心穏やかに朝を迎えたことは久々だ、と心の中で何度も反芻する。
まるで憑き物が落ちたかのような身軽さに自然と心が躍り出すが、いい歳をして浮かれるなどもってのほかだと自身に喝を入れて深呼吸をした。
フィトン・チッドが肺を満たし、口から吹き抜けていく。
頭に巻き付いていた鉛が外れたかのように爽快そのものだった。
まるで人間性そのものを取り戻したかのような快感に打ち震えつつ、ローテーブルを見やると一枚の紙切れが静かに置かれていた。
――先に行ってるからゆっくりしてて。迎えに来てくれるのを待ってるよ。
メモには簡素に一言だけそう添えられていた。
何のことだ? 再会は果たしたはずなのに……青年は古びたインクの香りを嗅ぎながら思考を巡らせる。
自分がベルハルト・トロイヤードの記憶を持っていることは自覚している。
だが、同時に「ノイン」としての記憶もあり、どちらが本当の自分であるかの判別はつかなかった。
そこに突如姿を消した彼女のこの一言だ。
彼が頭を抱えていると、木戸が勢いよく開けられ「『ノイン』たいちょー、迎えに来たよっ」と明瞭な声が飛び込んできた。
「フォリシア、レックスも」
そこには彼の部下である二人の姿があった。
上機嫌なフォリシアに対し、レックスは何故だか青ざめた顔をしていた。
一瞬だけ青年のほうを見るもすぐに口元を手で覆い、視線を床に落としてしまう。
「もぉ、レックスったら車酔いなんてだらしがないんだからー」
「あの運転でよく言えたな!?」
レックスは頭を起こすと言うが早いか、彼女のブロンドを平手で思いっきり叩いた。
「いったぁ!? たいちょー、見ました? 見ましたぁ? コイツ本気で叩きましたよっ」
「俺が本気で叩いてたら今頃ぶっ倒れてるだろ」
「なにおー? 格闘術E判定のクセに。Dのわたしに勝てる訳ないでしょーが!」
フォリシアは細眉を思いっきり顰め、軽快なジャブを繰り出して同僚を牽制する。
「ぷ、ははは……っ」
冷血漢のノインとして生きていた青年が朗らかに笑う。
決して誰にも見せなかった隠れた――いや、隠されていた一面に二人は目を丸くし「……ノイン隊長が、笑った?」と鳩が豆鉄砲を立て続けに食らったかのような顔をする。
「な、な、なっ。なにか悪い物でも食べたの!? ぺっ、しなさい! ぺっ!」
「フォリシア、お前慌て過ぎ。ここは落ち着いてだな」
「そういうレックスこそ膝が笑ってるじゃない」
二人の慌てように青年はノインとして口元を緩め「お前たちは俺のことを本当によく見ていてくれたんだな。ありがとう」と礼を口にした。
豆鉄砲の嵐を受けて瀕死だった鳩が崖から転がり落ちる。
「はっ……ハンドラーぁ!」
フォリシアの絶叫が木造小屋から村全体に行きわたり、村人が様子を見に集まってくるのにそう時間はかからなかった。
後日正午、旧サウストリア国ハーバラ州エターブ社第一会議室。
「会議ご苦労だった。ノイン以外の者は退室してくれ」
報告や調書を一通り取り終わり、各員の熱量を抑えるようにエアコンが効いた会議室から役員、社員たちがリカルドの一声で退室していく。
「ハッ、先日のWAW全損の件で減俸とは。お気の毒様だな」
「それはどうも。アイザック」
アイザックと呼ばれた男性がねちっこい視線で皮肉たっぷりに言う。
しかしノインの心には少しの揺らぎも感じられないどころか、余裕たっぷりに言葉を返す。
「あぁん……?」
いつもとは違うノインの様子に毒付くアイザック。
普段は瞬間的に沸点へ達するのだが、彼の部下が「はいはい、さっさと業務に戻りますよー?」と背丈の短いアイザックをまるで綿を持ち上げるかのように片手で持ち上げ、連行していく。
「おいっ、アイシャ! 俺をチビ扱いすんじゃねぇ!」
「してませんよー。それよりもお仕事、お仕事ー」
背丈がゆうに2メートルは超えそうな女性は暴れるアイザックを抱えると、ノインにウインクをしてずかずかと退室していく。
「さて、ノイン。お前にたずねたいことがある」
リカルドは入り口扉のロックを掛け、普段はナンバー付けで呼んでいる彼をじっと見つめた。
そもそも999というのは彼の製造番号であり、ノインという名称は隊の中で自然と生まれたものである。
彼らを束ねるハンドラーとしては情が生まれそうで胸を締め付けられる思いだったが、陸軍時代にベルハルトが親身になって世話をしていたことから口を出せずにいた。
グラビティウォール作戦目標達成直後エーテル嵐に見舞われ、作戦に従事していた者たちは独りを残して消息を絶った。
それがナンバー999、通称ノイン。コールサインは「エンドウォーカー2」
ハウンズ隊隊長のベルハルト・トロイヤードの僚機。
「お前は――何者だ?」
リカルドは我が息子と同じ目をした青年を険しい表情で詰問する。
ベルハルトとしての記憶が蘇りかけていたノインだが、不確定要素だらけの今はそれだけで口を割らないつもりでいた。
身なりの良い中年男性の影から生まれた「灰被りの魔女」が居なければ。
「おじさま。彼は確かにベルハルトそのものです――が、まだ完全ではありません。私には大事な何かが抜け落ちているように思えて仕方ないのです」
「ベルハルト」
イリアに続いてリカルドが追撃するように言葉を重ねる。
その眼差しは荒涼とした大地を見下すものではなく、ひとさじの希望を添えた温かなもののように青年には見受けられた。
だからといって嘘を重ね、息子のふりをしたところで鍍金が剥がれるのは時間の問題だろう。
彼に残された選択肢は一つ。
いや、最初からそのようなものは存在しなかったのかもしれない。
リカルドから半歩引いて後ろに立ち、意味ありげな視線をチラチラと送ってくるイリア。
――彼女に合わせるほかに道はない。
青年はあくまでもノインとして「……生憎だがハンドラー」と重い口を開いた。
「俺は自分がどのような状態にあるのか分かっていない。ノインとベルハルト、両者の記憶を持ち合わせていて、そのどちらも不鮮明で自分が何者であるかさえ分からない」
彼はそこまでで一旦言葉を区切り、期待の籠った紅で見つめてくる灰色の女性を盗み見、小鼻を膨らませてふんふんと鼻息を荒く吹き出す彼女にため息を一つ。
「……いい歳をした大人が情けない話ではあるが、ここはあなたの意見を聞きたい。リカルド、どうすればいい」
普段は口数の少ないノインがまるで堰を切ったように語り出すのでリカルドは一瞬だけ気圧されるが、イリアから凡そのことは聞いていたので緩みかけた頬の筋肉を引き締めると「……お前の人生だ。自分で決めろ。大戦終結においてハウンズ各員に対して市民権が与えらる予定ではあったしな」と視線を傍らに控えていた女性に向ける。
不意をつかれたが、イリアは瞬時に表情を整えると「彼が問題なければ、事態の収拾までは偽名を使うのが得策かと。私としてもベル――いえ、ノインの意思を尊重したいと考えます」と凛とした声で告げる。
二人はしばらくの間視線を交わしていたが、やがて申し合わせたかのようにノインのほうへと向く。
「ノイン、お前が選べ。選択なき人生に未来は無い」
リカルドは再び厳冬のように険しい表情をしていた。
執筆・投稿 雨月サト
©DIGITAL butter/EUREKA project
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