『エンドウォーカー・ワン』第39話
それは永遠に続くかと思うような長い夜だった。
「また、この光景か……」
青年は辺りを見渡す。
はいた息が白く凍り、風にあおられて大気に溶け込んでいく。
明る過ぎる星空が収穫盛りを過ぎた麦畑を照らし出していた。
なだらかに続く丘陵は靡く麦で波だっている。
「ふう……」
突き刺さるほどの冷気がサウストリア軍服の上を流れていくが、自然と身体の内側は温かく、むしろ温度差が心地よく感じる。
思考は驚くほどクリアで、身体は少年時代の頃のように今にも踊り出しそうなほどに生命力に溢れている。
だからだろうか。
一抹の不安よりも刹那の快楽を享受し、新鮮な感情に打ち震えてしまう。
しかし、彼にも僅かばかりの理性は存在する。
気を正そうと頬を手で打っていると、身体の周りを漂っていた発光体がふわふわと畑を縫うように低空飛行していった。
そして一定の距離を取ると、球体が進行方向とは別のほうへにくるりと向きを変え、こちらを見つめているような気がした。
「ついてこい、と?」
こくり、とそれは頷いたように見える。
光球に導かれるまま彼は麦畑を掻き分けながら進んだ。
青年は自らの存在を流れていく白い息だけで感じ取りながら進む。
前へ。
前へ。
「生」を遠くに感じるこの世界でも息だけは切れるんだな――彼は少しだけ荒くなってきた呼吸にどこか安堵しながら視線を黄金色の彼方へとやる。
そこには畑に溶け込むようなブロンドヘアの人物が静かに佇んでいた。
――エーテルに脳を焼かれた後遺症だろうか。この風景も慣れたかもな。
青年は、そこに立っているのが幼馴染の少女だと思い込み「なあ、イリア」と声をかける。
しかし、彼の言葉に振り向いたのは三十代の美しく齢を重ねた女性だった。
流れるようなブロンドヘアは肩にかかるほどの長さに切り揃えられ、幼さを残した新緑の瞳は青年を真っすぐに捉える。
均整の取れた顔の輪郭線、薄いメイクでも十分に瑞々しい肌は柔らかく光を弾いていた。
「ベルハルト……? どうしてここに?」
「……母、さん……?」
彼女の問いにベルハルトが反応する。
言葉を発した瞬間、エーテルに呑まれた赤色の記憶が嵐のように襲い掛かる。
――ゾラ、頑張ったな。目元は君にそっくりだ。
――ええ、でも目は貴方と同じ色。きっと父親似ね。
――どっちだっていい。大切な我が子だ、二人で育てよう。
――リカルド。勿論よ。
――ほら、ベルハルト。笑ってー。
――こらこら、お母さんとトリトニアさんたちを困らせるんじゃない。笑え、ベルハルト。
――でも、この拗ねてる感じも嫌いじゃない。好きよ、ベル。
――何で笑ってるかって? キミが泣いているからかな。え、キミとか言うなって? だって私のほうが年上だもん。
――ねえ、永遠に続いていくものってあるのかな。もし、あるならそれはとても素敵なことだと思う。
――ベル? 寝ちゃったかー。
――……おばさんは残念だったね。誰も代わりにはなれないけど、私は……ベルが「好き」と言ってくれた私だけはあなたの側に……。
ぷつり、と。
その物語は突然幕を下ろした。
身体の底から焼けるように熱い。
だが、寒い訳でもないというのに震えが止まらず、得体の知れぬ恐怖で精神がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられる。
波打つ脈動が少しずつ、だが確実に生命を脅かしていた。
――ああ、俺は死ぬのか。何も果たせず、こんな所で。
彼は自分の最期を感じ取り、存在しない目蓋を閉じる。
その小さな行いで誰の運命が変わる訳でもなく、自らを救うだけしかできない。
自分さえ良ければそれでいい――至って自己中心的で稚拙な思考。
だが、彼は違う。
「……ベルハルト、お母さんの分も世界を見てね」
実の母親を看取った。
「ベル。いいか、誰かの心臓になるんだ。そうすればお前はきっと強くなれる」
戦地に赴く父親を見送った。
「私はあなたのようになりたかった」
戦友と契りを交わした。
「たいちょー、コイツ後輩のクセに生意気なんですよぉ」
「同い年だろうがっ、いいからそのマウント癖止めろよ!」
再び部下ができた。
「お前さんが噂の――まあいい。極上のブツ、キメるか?」
他愛のない話をする年の離れた知り合いができた。
「ベルハルト」
「ベルくーん」
「隊長殿」
それだけではない。
様々な人や、思いを重ねて生きてきた。
だから、私は――いや、俺は。
「うおおおおおおおぉぉぉォッ!」
力の限り叫ぶ。
それはさながら獣の咆哮のようだった。
彼は口から蒸気を吐き出し、身を起こすと上半身に食らいついていた点滴やセンサーを強引に引き剥がした。
「先生っ、患者の意識が!」
偶然病室の前を通りかかった女性の看護師が、青年の奇行を目の当たりにして悲鳴に近い声で医師に助けを求める。
それも無理のない話だ。
彼は気持ち程度の布で下半身を隠し、鍛えられた身体を束縛するように巻かれた包帯を一つ一つ乱雑に巻き取っていく。
傷の縫合部からじわりと血が滲みだすが、彼はそこに意識を集中させて治療を試みる。
治癒能力が一時的に向上し、外傷や内傷を瞬く間に治していく。
「あー! 駄目です、回復魔法をそんな風に取り扱っては!」
看護師の一声に駆け付けた男性医師が可視できるほどの魔力濃度に焦り、その行為を止めようとするが時すでに遅し。
青年は突如、猛烈な吐き気に襲われ、膝から崩れ落ちると血の混じった吐瀉物を病室の床へ吐き捨てた。
「回復痛でショック死する人も居るんですから。ほら、ベッドに戻ってください」
病院のスタッフ二人がかりで蹲る青年を抱き起そうとするが、彼はその手を静かに払い除け「放っておいてくれないか」と口元を手の甲で拭いながら言う。
そして生まれたての小鹿のようによたよたと弱々しく立ち上がる。
「な、何を馬鹿なことを! 貴方は一週間も昏睡状態だったんですよ!? 医師としてこのまま行かせるわけには行きません」
「……俺の治療に尽力してくれた貴方がたに手荒な真似はしたくない。通してくれ」
青い瞳が燃えていることも忘れるほどに熱く、燃えていた。
それに当てられ入り口扉付近を塞いでいたスタッフは怯み、一歩一歩歩み寄る青の瞳を持つ巨人に道を譲る。
「……まったく、あの方が駄犬というのも分かりますね。馬鹿ですか、貴方は」
「ドラマとか映画の見過ぎじゃねーのか。そんな恰好で何しようってんだよ」
彼が廊下へ出るとヴァッツとランスが呆れ顔で立っていた。
そうしてランスが「これに着替えな、行くぞ」と紙袋を乱暴に押し付け、背中を向けて歩き出す。
「支払いなら済ませておきましたからご心配なく。無論、貴方のカードで、ですが」
ヴァッツは表情を僅かに崩してひらひらと手を振る。
青年はしばらく呆けていたが、意思を新たに歯を食いしばると、二人の後を追った。
執筆・投稿 雨月サト
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