彩りを連れて 四
「真緒? まーお!」
晴くんが私の目の前に手を突き出して振っている。それを知覚してハッとした。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「いいよいいよ」
美玲ちゃんは笑いながら許してくれたけれど、晴くんは心配そうにこちらを見ている。
「どしたの? 何かあった?」
頭の中に昨日のお母さんとの会話が蘇る。咄嗟に言葉を返せずにいて、余計に晴くんを心配させてしまった時、
「ぼーっとした理由なんて説明する方が難しいだろ」
立花くんがそう助け船を出してくれた。
「……まあ、そっか」
晴くんはまだ納得いってなさそうだったけれど、一応は流してくれたらしい。
「今日は昨日買ったもの使うだろうし、しばらく買うものないと思うから、とりあえず他の班の手伝いしようか」
「りょーかい」
私衣装班行ってくるわ、と美玲ちゃんがすぐに席を立つ。
「じゃあ俺、ルート作り手伝ってくるわ」
立花くんも早々に班のところに移動して、結局晴くんと私が残ってしまった。
「んー、俺たちは各班見て回って、一番人手欲しそうなとこ行こっか」
そう言うと席を立って、「装飾班―! なんかやることあるー?」と班の中に飛び込んで行く。急に登場してみんなビックリしないだろうかと少し心配したけれど、晴くんはすぐに受け入れられていた。
「これ赤い手形でいっぱいにしたいんだけどさ、この量だから果てしなくて……」
「おっけー。俺と真緒も手伝うよ」
見ると、黒いシートが床に広がっている。中心から徐々に範囲を広げるように手形を押していけば良いらしい。
晴くんは袖を捲ると躊躇なく赤いインクを手に押し付けて、ペタッと黒いシートに手形を残した。
「うわ、それっぽい」
なんて笑いながら。
私も晴くんに倣ってインクに手を伸ばす。思ったより粘着質で、ちょっと気持ち悪い。ベタっと手形を残すと、シートの色と相まって赤黒くなり、“いかにも”な色合いになった。
晴くんは躊躇なくペタペタと手形を量産する。
「ちょっと掠れてるのもあった方が雰囲気でるかな?」
と装飾班の子と相談しながら。
晴くんのコミュニケーション能力の高さに関心しつつ、私も手形を量産する。インクは少しぬるっとするけど、そのうち慣れてきた。掠れ気味になるまで手形を付けて、あんまり色が薄いところには重ねていく、という手法が確立されてきて、みんなで黙々と手形をつけている様はなんだか少し面白かった。
「わ、真緒の手小さい」
急に晴くんが自分の手形と私のそれを見比べて言った。確かに、晴くんと比べると私の手形は少し小さい。
「そんな驚くほど小さいかな」
むしろ私の手と比べて少し大きいくらいの晴くんの手の方が、一般的な男子と比べたら小さい気がするけれど。
手形を付けながら話していると、晴くんの動きが止まった。何があったのかと顔をあげてみると、目の前にニカッと笑う晴くんの顔がある。
「良かった。やっと普通に答えてくれた」
ほんの一瞬、時が止まったように感じた。それが、なんでなのかは、分からないけれど。
「真緒、今日は朝からちょっと変だったからさ。どっか上の空って感じで……。慎平は『ぼーっとしてる理由なんて説明が難しい』って言ってたけど、俺はやっぱ気になっちゃうな」
一つ手形を増やしてから、晴くんは私の目を見て言った。
「何かあった?」
そこで、目を合わせて、「何もなかったよ、大丈夫」と言うことができたなら、晴くんも流してくれたのかもしれない。
けれど、実際の私は目を逸らして何も言えずに固まってしまった。
「……言いづらいことなら、無理にとは言わないけど」
そう言いつつ、晴くんの顔は心配そのものだ。何も言わずに誤魔化していたら余計にその顔を曇らせてしまうかもしれない。
……でも、何をどう言えばいいのか、分からない。
自分でもこの胸の内のモヤモヤが何という名前なのか分からない。分からないから、“モヤモヤ”と形容するしかないのかもしれないけれど。
昨日、お母さんと話して、それからモヤモヤしていることは明白だ。そう、お母さんに……いや、お母さんには、別に、大したことは言われていないはずだ。ただ、帰りが遅くなるのを心配されただけ。……帰りが遅くなって、勉強が疎かになるのを心配されただけ。晴くんたちのことは一言も喋っていない。
なのに、どうしてだろう。
お母さんに、晴くんたちと一緒にいるのはやめなさい、と言われた気分になっている。文化祭で同じ班になったから仕方ないけれど、それが終わったらもう関わらないで、と言われたような気分。
それは、いつ衝突するか分からないからだろうか。
失敗が訪れるのが怖いからだろうか。
「……真緒?」
そもそも私は何をそんなに怖がっていたんだっけ。失敗するのは確かに怖い。でもその怖さの奥には、それだけじゃない恐怖がある気がする。それは、一体──。
「あ」
小さく、ごく小さく、音が出た。
「真緒?……大丈夫?」
「……うん。大丈夫だよ」
大丈夫と言うしかない。こんな話、とても晴くんには聞かせられない。
「……ほんとに?」
晴くんは最後まで詰め寄ってくる。でも、晴くんだって、期間限定の関係だ。私のこんな話を聞かせるような筋合いはない。
「うん、ほんとに。……そろそろインク足そうか」
「え、あぁ、うん……」
真っ赤なインクをバットの上に広げていく。晴くんも、私も、ただ黙ってそれを見て、そして手形を付け始めた。
大丈夫。大丈夫。
文化祭さえ上手く回ればそれでいい。……晴くんは優しいし、立花くんも美玲ちゃんも、私とちゃんと話してくれる。文化祭を乗り越えるだけなら、きっとできる。
だから、大丈夫。
私が抱えなきゃいけない荷物は、ちゃんと自分で抱えていく。
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