『エンドウォーカー・ワン』第26話
「んふー。ベェ~ルぅ?」
銀髪の女性が甘ったるい猫撫で声を発し、熱っぽい視線を送る。
相手は同い年くらいのいたって健康的な男性で、若い女性特有の香りとピタリと密着する身体の感触に狼狽えていた。
今まで鋼鉄の身体を操ることだけに特化し、その他の機能は「調節」されていて並みの人間ほど敏感ではない。
女遊びも露ほども興味がなく、自身もそれに対して引け目などを感じることすらなかった。
だというのに。
――どうして、こうも心がざわめくのだろうか。
ノインは絡みついてくる彼女に対し、腹の底から強く突き動かされる何かに必死で抗っていた。
ふかふかのベッドに腰かけて汗ばむ手をきつく握り、歯を食いしばって虚空の一点をただ見つめる。
この死線を越えてしまっては、この先生き残れない――そんな予感がしていた。
「いつも遠くから眺めていただけだから、こうして触れられるのは何年ぶりかなぁ」
青年が抗戦一方なのをお構いなしに灰被りの魔女は紅い目をとろんとさせて幼馴染を見つめる。
幼少の頃、彼との別れ際に脳裏へ焼き付けた真夏の海原のように真っ青で、過酷な現実で幾千も刻まれても曇りを知らぬ輝き。
そして、クラス5も凌駕する濃厚な魔力と気配はあの「ベルハルト・トロイヤード」そのものだった。
だが、ハンドラーから何も知らされていない本人はただただ、冷や汗を流し続けることしかできない。
第三者視点の自分が「俺も人並みの感情があったんだな……」としみじみと頷いている様子が感じ取れた。
「ねえ、二人きりになったんだから、何か話そうよぉ」
「その、イリア」
「なぁに?」
彼女が猫であるのならば、ゴロゴロと喉を鳴らしているほどに上機嫌なイリア。
ノインの感情を完全ではないにしろ調節した張本人は「将来のために撃ち合うこと以外も覚えておけ」と本を何冊か寄越したことがある。
本屋から無造作に引き抜かれたと思われるタイトルは普通の人間ならばその統一性のなさに辟易とするところだが、一度「リセット」され、人格形成の段階にあったノインにとってそれは数少ない娯楽だった。
ビジネス、宗教、文化、専門書……そして、仮想の物語。
中でも物語は彼の中でも鬼門だった。
内容を理解はできても登場人物たちの心理や行動原理が分からない。
データとしての知識や経験はあっても、コミュニケーション能力は10代の子ども以下だ。
「ベル?」
イリアがまるで恋人に笑いかけるかのように花咲かせた。
今のノインにとってそれは「未知」であり、目の前の女性が保護対象であるイリア・トリトニアだということまでしか分かっていない。
解放戦線のリーダーが彼のことを偽者と呼んだことや、彼女の態度を見るに、ノインは自分が自分ではない何者かではないのかという認識に置き換わっていく。
「イリア。その、本当に思い出せないんだ。あと絡むのは止めてくれないか。それはエーテル酔いの症状だ。冷静になれ」
「もー、私はいつだって冷静だよ。久々に甘えたい気分になっただけ」
イリアはノインの身体に手を回すと彼の厚い胸板に頭を埋めた。
これではまるで恋人とかいうものの関係ではないか、と経験のない青年は心の汗を流し続ける。
上司からはベルハルトとイリアは幼い時に別れ、少年は後に軍へ。少女は彼を陰から支える立場に就いたとしか聞いていないのでまさかこのような関係にあるとは露知らずだった。
――999、もしもの時は記憶喪失のふりをして彼女を誘導しろ。
機内ブリーフィングで伝えられたハンドラーの言葉がノインの脳裏に蘇る。
保護対象がイリア本人であることの確証は軍内部の情報を知りうる上司でさえ五分五分の悪い賭けだった。
だが、演技の稽古すらしたことのない人並み以下の人間にそれが務まるとも思えない――ノインは思い悩み、ハンドラーを呪った。
「とりあえず助けてくれたことには感謝する。色々と話を聞きたいので弊社――エターブまで一緒に来てもらえないだろうか。リカルド・トロイヤードが話を聞きたがっていた」
「おじさまが? よかった、生きていたんだね」
彼女のルビーの瞳に光が流れ、手で口を覆い隠すとほろほろと涙を流し始めた。
「どうして泣く? 君の肉親ではないだろうに」
「だって、これほど嬉しいことはないよ! ベルのただ一人のおとーさんじゃないっ」
イリアは幼子のようにベッドの上で弾み、薄手のマットレスと木製フレームがぎいぎいと悲鳴をあげる。
「……人の幸せが何故それほど嬉しいんだ? 世の中は限られたパイの奪い合いだ。幸せなど、他人の不幸の上に成り立つものだろう。それを――」
「それは違う。違うんだよ、ベル」
先ほどまでは甘息を漏らしていたイリアだが、ノインの冷めた言葉を罰するが如く急に厳しい表情となる。それはまるで子どもを𠮟りつける母親のように、人差し指を立てて眉を顰めた。
普段は何事にも動じない青年が気圧されている。
女性はその様子に少しだけ表情を緩めてたが、それは先ほどまでとは様子が違った。
静かに手を組み、まだ見ぬ神に祈りを捧げるように目を閉じる。
「生きとし生けるものたちよ。全ての希望はあなたたちの中にある」
そうして出た言葉は何とも抽象的で、掴みどころのないものだった。
その様子は「灰被りの魔女」という仰々しい通り名には似つかわしくなく、純白の衣を身にまとった聖女のようであった。
その恵まれた容姿を利用すれば多くのものを手に入れられただろう。
だというのに、彼女は戦場に身を置いている。
ベルハルト・トロイヤードへの想い故にだろうか。空白のノインは困惑した。
「この星への開拓団に贈られた地球からの言葉だよ。希望は周りになくても生み出せる。いつだって前に進むのは自分自身だから、私はそう信じてる」
彼女が言い終わるが早いか、ノインの奥底に「本来」ならば存在しないはずの情景が白飛びに浮かび上がる。
頭中を耐え難いほどの鈍痛が襲い、腹の中身を全て吐き出してしまいそうなほどに不快だった。
「ベルハルト……?」
「俺は……『ノイン』だ」
「違う。貴方は私が探していたベルハルト・トロイヤードの心を持っている。あの時、致死量のエーテルを浴びて一時的に不安定になっているだけ。怖がっていないで思い出そう? 私たちのあの黄金色の世界を」
イリアはベッドから立ち上がり、煤けたノインの赤髪を撫でる。
「貴方には辛いかもしれないけど、覗かせてもらうね」
言い終わるが早いか、彼女が手をかざすと二人を光の闇が飲み込み意識が溶けていった。
執筆・投稿 雨月サト
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