『エンドウォーカー・ワン』第18話
「で、用事ってなんだよ」
幾分か酔いのさめたレックスを酒場から連れ出して数分。
都市圏にはない未整備の河川敷は虫の音が聞こえ、月――この星の住民たちが定義上そう呼称しているだけだが正式名称は「アルター7‐A」という。
地球の衛星である月と似た性質を持ち、周回期も全く同じというわけではないが夜空に浮かぶそれはまさに神秘の象徴とされるものだった。
太陽の輝きを受け、幻想的とも不気味ともとれる世界で若い男女はまだ残る寒さに身を強張らせながら光をもたらすものを見上げている。
「何時間か接触してようやく確信が持てたけど、彼女は『キャスター』で間違いないと思う」
「ああ『魔女』のコトだろ。何でコールサインで言う必要が――」
「少しはプロ意識を持ちなさいっ!」
酒気抜けきらなく呆けた表情で頭を掻くレックスに、フォリシアは鋭い肘鉄を見舞う。
「いてぇ! プロとか言われても無理だろ。少し前までただのアルバイトだったんだぜ?」
不機嫌そうに頬を膨らませるフォリシアに青年は食ってかかる。
「――わたしだって、ただの高校生だった」
彼女は口内に溜まった空気を音もなく吐き出し、アメシストの光を細めた。
前だけを向いて生きると決めていたのに、その眼差しは後ろを振り返り喪った悲しみばかりに囚われていた。
あの日見た未来は開けてはいなかった。
生き残れば開ける。そう信じていたのに。
それは青年とて同じだ。
あの戦争から全てが変わった。恒久的な平和など信じていなかったはずなのに。
自分たちだけは大丈夫だ、と驕っていた罰なのだろうか。
それは誰にも分からない。
「……悪かったよ。そういうつもりで言ったんじゃない」
レックスはフォリシアに頭を垂れて謝罪の意を示した。
人間性というものをかなぐり捨てたいほどのあの耐え難い苦痛。
それは自分だけではなかったのだと改めて実感する。
人生の選択肢を狭められた者と、青春時代を奪われた者。
同義でありながら、どちらが残酷であるだろうか。
青年は頭に思いを巡らせる。
「悪気がないのは分かってる。それよりも何よ。まじまじと人の顔見つめちゃって」
「いや。よくよく見ると可愛い顔してるなって」
「はあ?」
レックスの漏れ出した言葉にフォリシアは細眉を吊り上げて怒りを顕わにした。
彼としては褒めたつもりだったのだが、その愚直な撫で方に黄金色の猫は耳をペタンと折り畳み不機嫌そうにしていた。
「なんだっていうんだよ」
「興味のない異性からの好意はあまり嬉しくないの」
「オレは純粋に褒めただけなんだが……」
「だって――」
フォリシアは揺らぐ心を薄氷の如く脆い仮面を被り、褪めた吐息を吐き出す。
フォリシアが思い出すのは戦前のさりげない日常。
学校に空爆があった日。
ニュースや周囲が言うように「奪われた」のではない。
大切な友人、知人、恋人。親兄弟……皆「殺された」のだ。
北と南の戦争は長期化し、両者とも国際人道法などに形振り構っていられなくなり、いかに敵国の国力を削ぐかに躍起になっている最中の出来事だ。
それでも平和な時代に生まれ、育った彼女にとってそれは不確かで、家族の墓標を前にしてもなお悪い夢のあとのように心地が悪いだけだった。
だが、どこにも自分を守ってくれる存在はもう居ない。
フォリシアは「漠然」と無慈悲なノーストリアを恨んだ。
――恨むしかなかった。
憎悪にでも囚われていないと、気がおかしくなってしまいそうだった。
戦後、そういった境遇の少年少女たちは売って歩くどころか、ワゴンから溢れ出すほどに居る。
身寄りがなく、福祉の手から零れ落ちた子どもらは路上や廃墟で生活をしていた。
生活の苦しさからノーストリアに対する憎しみはより強くなる一方で、犯罪に手を染める者も少なからずいた。
治安が悪化するのを食い止められない占領軍と現地住民の間で衝突が起こり、街は戦時よりも混沌の様相を呈していた。
そんな時勢の中、フォリシアは叔父の元に身を寄せていた。
彼は孤児たちの保護をする慈善団体の運営者で、少女もまた年下の子どもたちの世話を率先して見ていた。
自身に傷を抱えながらも目の前で困っている人間を見過ごすことはできない。
復学を果たし、時折訪れる身体の不調に薬を飲みながらも何とか平穏な生活を取り戻したかのように思えた。
「フォリシア。お前は『特別』だ」
18歳の誕生日。
叔父パウルの元に身を寄せていた彼女に突然告げられた言葉。
意味が分からなかった。
誰にとって「特別」であるかなど、その本人によっていくらでも歪めようのある認識だ。
「……叔父さん。その顔で言われても素直には喜べないよ」
まるで物語の終幕前に真実を明かす裏役のように険しい表情の彼を前にし、少し前まで「少女」だったフォリシアは顔では平静を装いながら身体を強張らせた。
「そう身構えるな。以前、保育士になりたいと言っていただろう? 悪くない条件の仕事を持ってきた」
午後の日差しが照り付ける天板の上に茶封筒が滑り落ちる。
いつの時代になってもこういった紙類はコストの問題からの残り続けていた。
フォリシアは訝しげにそれを手に取り、封もされていない封筒から文字の書かれた紙を抜き取り目を通す。
「正規の児童福祉施設ではなさそうですが」
「……終戦間際の北の無差別爆撃で多くのサウストリア人が犠牲になった。元々は同一民族だというのに、奴らは我々を人間だとは思っていないようだ」
パウルは机の上に投げ出された手を組み、よりいっそう眼光を強める。
「やつらの占領政策は杜撰極まる。一部の州では反政府運動が盛んになり『サウストリア解放戦線』などという組織も誕生したようだ」
「彼らの噂はわたしもネットで目にしました。まだこの国も捨てたものではないって」
「奴らは人民を巻き込むただのテロリストだ!」
突如、机をへし折らんとばかりに拳が振り落とされる。
フォリシアは叔父の豹変ぶりに思わず飛び上がりそうになり、身を半歩ほど引いた。
場が凍りつき、痛いほどの静寂が二人の喉をひりつかせる。
「取り乱してすまない。私も北は憎い。だが、殺されたから殺して……殺しあって、最後に一体何が残るというんだ」
「……」
「時代は変わった。力なき我々は醜く、歪な支配者でも従わなければならないのだよ。そのためも異端者は存在してはいけないものだ」
「だけど――」
パウルは普段、子どもたちの前では感情を殺してはいるが、本来熱い性格の持ち主なのだろう。
それを目の当たりにしたフォリシアは底知れぬ恐怖と、どこだか機械人間だと思っていた彼の本当の姿を知ることができた親しみと共に、複雑な気持ちだった。
「――私は少し心を落ち着けてからレストランへ行く。お前たちは先に行ってなさい」
黒メッシュの椅子を回転させ、背を向けたパウルに対しフォリシアはただ心の吐息を漏らしながら「はい」と返すことしかできなかった。
「フォリシア、親父何だって?」
彼女が一階に降りたところで、一歳年下のいとこであるロウが居間から顔だけを覗かせて声をかけてきた。
父親と同じ鴉色の頭髪は最近セットし始め、今日も整髪料を付け過ぎたせいかやたらと艶やかだ。
まだ「男性」っぽくない丸みを残した顔の輪郭線は彼をより幼く見せ、顔で不敵に輝く濃褐色の瞳。
容姿は整ってはいるが、フォリシアにとって彼は男性らしさよりも保護欲をそそられる存在だった。
馬鹿なほどに一直線で、情に厚く、人一倍泣き虫で……好意がないと言えば噓になる。
「ううん。ただ、用事があるから先行っとけだってさ」
しかし、彼女は自分の気持ちを何も思うことなく噛み殺し、いつもの顔で答える。
――わたしは大切な人を作りたくはない。もう失うのは嫌だ。
重苦しい気分で玄関を開けると、空低く太陽が燃えていた。
執筆・投稿 雨月サト
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