『エンドウォーカー・ワン』第27話
ノインの意識はどれだけ飛んでいたのだろうか。
彼の目の前にはたわわに実った小麦の穂の切れ間に赤い空が広がっていた。
「ここは……?」
「ベルハルト」
女性の声がしたほうを見やると、そこにはイリアが神妙そうな顔つきでノインに手を伸ばしていた。
陽の光で銀の線が浮き、肌白が色濃く映り先ほどまでとは違う側面を感じられ青年の心を何かが打ち付ける。
「このくらい自分で起きられる」
しかし、ノインは差し伸べられた手を息を吐いて跳ね除ける。
イリアは素の表情のままで少しだけ不満そうに頬を膨らませた。
彼が自分の足で立ち上がると、空の果てに豊穣の神が沈みゆくところだった。
闇と光を織り交ぜたグラデーションを作り出していて夏の終わりを思わせる。
自然が作り出した幻想的な光景の下には一面小麦畑が広がっている。
身体に纏わりつく穂を鬱陶しく払いのけていると、遠くから何かがこちらに近づいて来た。
歳の頃は10前後だろうか。二人の少年少女が小麦の稈を掻き分けて赤く染められた黄金色の世界を駆け抜けていた。
「ほらほら、ベルったら遅いんだから。もたもたしてると置いて行っちゃうよぉ」
少女の活発な声が響き、銀色の線が跳ねながら遠ざかっていく。
「イリアっ、待てよ!」
それがまるで自分自身であるように、ノインは遠ざかる少女に向けて声を張った。
「やっぱり、貴方がいくら否定しようともベルハルトは中に居る」
青年が自分の言動に困惑していると、そこには追いかけていたはずの少女が後ろ手にして立っていた。
「イリア、俺は」
そこには少年が拳を握りしめて震えていた。
彼は自分の身体に何の違和感を覚えることなく、自然と心から言葉が湧き出る。
「俺は、お前の背中を追いかけていた。あの時も、別れた時も。いつだって」
彼には自分が何を言っているのかまるで分からなかった。
ただ、魂がそう叫ばせていた。それがおもむくままに口が動いていた。
「だけど……逆だったんだな。俺をいつも陰から見守ってくれていた」
ベルハルトが言うと、銀の少女は太陽のように微笑んで見せる。
先ほどまでそこにいたはずの大人のイリアの姿は何処にもなく、少年と少女だけの赤と黄金色を織り交ぜた世界。
まるで外の世界から切り離されたかのように雑音が存在せずに穂が擦れ合う音と風の囁きだけがその場を支配していた。
「……しかし、何故忘れていた? 俺は『グラビティウォール』作戦中に意識を失って、そのまま――」
「それは分からない。だけど、名を騙る人たちがいる。あの機体のパイロットの精神波形はベルに似ていた――いえ、ほぼ同じだった」
「では、なぜ俺がベルハルトだと?」
ベルハルトが疑問を口にすると、イリアは軽く彼を抱き「あなただからだよ」と耳元で囁いた。
少年は一瞬固まっていたが、幼馴染の熱を帯びた紅と空の色に曝され、耳たぶまで羞恥に染まっていく。
「な、な、なんかヘンだ。こんなに動揺するなど」
「ふふ、ベルったら中身は成長していないんだね。……というのは冗談。記憶野に長居し過ぎて心が過去に引っ張られているね。そろそろ帰ろう?」
イリアがベルハルトの手を取り、おもむろに畑の中を走りだす。
決して強い力ではない。
だが、自然と自らの足が動いた。
畑を掻き分けながら前へ。前へ。
「なあ、イリア。帰るって何処にだ?」
ベルハルトは少女に問いかける。
「私たちの故郷『イルデ』にだよ」
イリアがその言葉を口にした瞬間、彼らを覆っていた世界が急変する。
刈り取られて一面丸裸になった小麦畑。
視界が歪んで思い出せない父親の顔。
破壊されたコンクリート壁に貼り付けになった屍。
屍。
しかばね。
また、シカバネ。
彼が行く先々では常に硝煙とマシンオイル、灰の臭いが漂っていた。
――生き残れば未来は開ける。
彼はそう信じていた。
厳しい訓練の最中、何度も泣きそうになった。
いくら泣いても祈っても、現実は変わらない。
ならば、強くなるしかない。
虐げられることなく、運命を打ち砕くほどに強く。
「イリア、俺は強くなれただろうか……」
彼女はそれに答えることなく彼のほうへ振り返り、口元を緩めただけだった。
執筆・投稿 雨月サト
©DIGITAL butter/EUREKA project