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近代社会の崩壊

 疫病が流行する前から、この社会にはなんともいえないおかしさが内在しているような感じがあった。それをはっきりと口には出して言えないものの、感覚としてはどこか違和感を昔から覚えていたという人でなければ、ここ数年のせっかくのあからさまな暴露ステージでも何が起こっているのかわからないままなのだろう。

 たとえば刑務所のようにデザインされた学校や職場であったり、人間性を欠いた「労働力の運搬装置」でしかない公共交通機関であったり、三文芝居の政治ショーであったり、結局は米帝国主義の礼賛に帰結する学問であったり。

 そのような非人間的な無神経さと暴力性に対して無頓着であるというか、無頓着さを身につけたというか、強い放射線を浴びても死なないゴキブリみたいな個体だけが社会の要所要所に配され、その結果として社会全体が監獄と化してきている。

 疑いさえ持たなくさせるような洗脳と情報操作、それを支える社会制度は、文字通り揺りかごから墓場まで善意で舗装されつくしており、いまを生きる人々が生まれてから、いや生まれさえする前からそれは始まっていた。

 我々が自分で当然だと思っている価値観、信念体系の根底が、ある意図のもとに作られ刷り込まれたものである。そういう根底にある価値観や信念が覆されようとしているのがいまの世界の動きであって、これまでの土台となっていたものが崩壊してしまったあとに、どのようになっていくのかはもはや誰にもわからない(支配者は知っているのだろうが)。

 私は何度か「中世や、下手すると石器時代に戻る」というようなことを考えてきたが、それがどのような現象として現れてくるのかということを具体的に書くと、「情報に対する信頼性の喪失」ということがあるのだろうと思う。なんであれ記録・保存されてきた情報やデータの信頼性が喪失し、アテにならなくなることで、なにも記録のない先史時代と実質的に大差なくなってしまうのではないか、ということだ。あらゆるものが記録されるということは、何も記録されていないということと等価である。

 いまや生成系AIの進歩によって、動画や画像はいくらでもフェイクを作ることができるようになった。それを他人が見ているのかどうかも、SNS上で数値として可視化されているが、その数値がホンモノかどうかもわからない。このようになってくると、インターネットやデジタルの情報はあくまでも参考程度に留まり、結局のところ自分の目で見たり触ったり、自分自身で経験したこと、あるいは一族の中での伝承など、非常に近しい人間から聞いたことしか信じられないというようなことになってしまうのではないか。 

 こうして、情報の伝達経路や伝承も、太古とさして変わらない様相を呈していくようになっていく。人それぞれの解釈や理論があって、それに賛同する人々同士が集まって小集団を作っていくようになる。そうなると「ちゃんとした情報が行き渡らなくなる」とか「カルトが増える」とかいう批判が当然のように出てくるのだが、「ちゃんとした情報」や「解釈」、「正統な理論」というものがすでに近代の妄想という気がする。いまメディアなどによって喧伝されている情報・価値観だって、たいがいはドル覇権のもとで濫発された不換紙幣によってファイナンスされているもので、不換紙幣とイージーマネーの時代が終わると誰もがバカバカしいと感じるようになるタイプのものばかりだ。注射にしろコオロギにしろ変態にしろ、全部そうだ。国家や企業の権威が崩壊したら誰も見向きもしないデタラメばかりだ。いま誰がタピオカを飲みたいと思うのか?そういうものだ。キツネやタヌキに化かされて、ただの葉っぱを金銀財宝と思い違いしていたのだと気づかされるときが必ず来るだろう。それがどのくらいの規模・深度で起こるのかはよくわからない。しかし近いうちに必ずやってくるし、社会の虚構性や儀礼性、流布されている情報や価値観の恣意性といったものに無自覚な人々にとっては、非常に辛い時期となることだろう。

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