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『字通』と読む新嘗祭

 11月23日は「勤労感謝の日」ということにされているが、この日はもともとは新嘗祭にいなめさいであり、その年の収穫を神に感謝するという日であった。
 「ジョウ」は尚と旨からなる。尚は声符でもあるが、この字自体は「向」が窓を表し、上の八の形は神気が現れ漂うことを表して、光の入るところに神を迎えて祀る様子を示す。旨はあいくちえつにつくり、曰は器にものを収めた形。小刀で器の中のものを切って食すことをいう。合わせて嘗は供薦して神を迎えて神のいたることをいう(『字通』)。
 こうした神道的な呼称はけしからんとして、戦後にGHQによって記念日や祝日に関しても神道色を廃した名称に改めるということが行われた。新嘗祭を勤労感謝の日とする案を出したのはマルクス主義の歴史家の羽仁五郎である。それに対して勤労という文字をつけるかつけないかという点で議論がなされている。

鈴木(里)委員 ただいま佐藤委員から御発言がございましたが、この勤労感謝の日であります。そもそも衆議院案といたしましては、勤労感謝の日という十一月二十三日は、新穀祭、新穀に対する感謝の日ということが原案であつたのであります。それが感謝の日になりまして、はからずも六月十五日の衆参合同打合会におきまして、私はおりませんでしたが、勤労という字を羽仁君の動議によつてつけたというお話であります。私といたしましては、これは國民全般が、新穀並びにすべてのことに感謝する意味合のもとに感謝の日を設けるのが至当でありまして、單に一階級である勤労者に対して感謝をするということは、いたずらに階級意識を助長するような感を深くしますので、どこまでもこの「勤労」という字を削除することを主張するものであります。

第2回国会 衆議院 文化委員会 第13号 昭和23年6月19日 発言005、太文字引用者

 「勤労」の「勤」の旁は(活字が出てこないが)飢饉のときに巫を焚いて祈る形を表し、力はすきを象った文字。労は旧字体で勞と書き、力(耒)の上に火が二つ並んでおり、耒を火で清める様子を象ったもの。つまり勤労にしたところでプロレタリア礼賛ではなくて農耕に関して神に祈る様子を表した文字なのである。

 当時の議論を見てみると、「勤労」という文字を入れる入れないということで長く議論されていることがわかる。いまの感覚からするとなぜここまで勤労という言葉にこだわるのかわからないかもしれないが、この問題は単なる祝日の名称であるにとどまらず、社会主義・マルクス主義・無神論が日常生活の中に侵入するか否かという問題でもあった。昭和のころにはまだ下記のように気骨のある反論をする議員もいた。

竹尾委員 大分議論が盛んなようですが、私は少し怠けてあまり委員会に出席しませんで、前に論議されたかと思われるようなことを、再びこの席上で申し上げるのははなはだ申訳ございませんが、少しく私の意見を述べさせていただきたいと思います。  今玉井委員あたりもお述べになりましたが、十一月二十三日は、とにかく農民に感謝する日であつた。しかも馬場委員は、將來のこともお考えにならなくてはいかぬということでございましたが、われわれの祭る、あるいは祝うという観念の中には、やはり民族の傳統を重んずるという要素が非常に多いのでありまして、その意味からいたしましても、われわれが農民に感謝をするということで、勤労という意味を、農民に働きに抽象化することも間違いではないので、やはりただ單に「感謝の日」では私もどうかと思つているのです。そこで話は前にもどるかもしれませんが、新穀に対して感謝をもつて——われわれは自分が百姓をやつている関係上、非常に労働に対する感謝の念には燃えております。新穀に対する感謝という意味で、労働一般を抽象化されまして、新穀感謝の日というぐあいにしていただきたいと私は思うのでございます。これは論議されたかと思いますけれども、ひとつ私の案を申し上げます。

第2回国会 衆議院 文化委員会 第13号 昭和23年6月19日 発言028

鈴木(里)委員 私といたしましては、なるほど勤労を貴ぶということについては、異議ありません。しかしながらわれわれの概念といたしまして、殊に労働問題のやかましい今日におきましては、勤労ということは、労働者あるいは勤労階級を意味することは、一般の通念であります。でありますから、説明しなければわからないような字句は、とつた方がよろしい。それから馬場委員は、これは六月十五日における両院の文化委員会における案だからと言われますが、これは打合会でありまして、最後の決定は今日にあるのでありますから、あえてこれを固執する必要はないと思います。でありますから、われわれといたしましては、どこまでもこの「勤労」という字を削除せられることを望みます。

第2回国会 衆議院 文化委員会 第13号 昭和23年6月19日 発言014、太文字引用者

 訓読みの「つとめる」の「つと」は「つとに」のつとと同じである。夙は『説文解字』に「夕と雖も休まず、早敬なる者なり」とあり、早朝と夕べの祭礼を表し、特に朝早いことを意味する字。日本語の「つと」も早朝の意で、『枕草子』に「冬はつとめて(冬は早朝がいい)」の句がある。「つとめる」は朝早くから仕事に精を出す意。

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 難しい漢字や言葉を廃止しましょうというのも、GHQに始まる日本人弱体化の施策の一環である。複雑な漢字には、白川静が説いているように、古来からの風習や儀式の跡が残されており、そういうものに庶民に触れられると困るから隠してしまおうということが目的で、言葉狩りも同様である。とはいえ体制としてはもうどうしようもないので、ひっそりと古の伝承を語り継ぐ荒野の隠者のようにして知恵が保存されるほかはないのであろう。

 


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