11月23日は「勤労感謝の日」ということにされているが、この日はもともとは新嘗祭であり、その年の収穫を神に感謝するという日であった。
「嘗」は尚と旨からなる。尚は声符でもあるが、この字自体は「向」が窓を表し、上の八の形は神気が現れ漂うことを表して、光の入るところに神を迎えて祀る様子を示す。旨は匕と曰につくり、曰は器にものを収めた形。小刀で器の中のものを切って食すことをいう。合わせて嘗は供薦して神を迎えて神のいたることをいう(『字通』)。
こうした神道的な呼称はけしからんとして、戦後にGHQによって記念日や祝日に関しても神道色を廃した名称に改めるということが行われた。新嘗祭を勤労感謝の日とする案を出したのはマルクス主義の歴史家の羽仁五郎である。それに対して勤労という文字をつけるかつけないかという点で議論がなされている。
「勤労」の「勤」の旁は(活字が出てこないが)飢饉のときに巫を焚いて祈る形を表し、力は耒を象った文字。労は旧字体で勞と書き、力(耒)の上に火が二つ並んでおり、耒を火で清める様子を象ったもの。つまり勤労にしたところでプロレタリア礼賛ではなくて農耕に関して神に祈る様子を表した文字なのである。
当時の議論を見てみると、「勤労」という文字を入れる入れないということで長く議論されていることがわかる。いまの感覚からするとなぜここまで勤労という言葉にこだわるのかわからないかもしれないが、この問題は単なる祝日の名称であるにとどまらず、社会主義・マルクス主義・無神論が日常生活の中に侵入するか否かという問題でもあった。昭和のころにはまだ下記のように気骨のある反論をする議員もいた。
訓読みの「勤める」の「つと」は「夙に」のつとと同じである。夙は『説文解字』に「夕と雖も休まず、早敬なる者なり」とあり、早朝と夕べの祭礼を表し、特に朝早いことを意味する字。日本語の「つと」も早朝の意で、『枕草子』に「冬はつとめて(冬は早朝がいい)」の句がある。「つとめる」は朝早くから仕事に精を出す意。
・・・
難しい漢字や言葉を廃止しましょうというのも、GHQに始まる日本人弱体化の施策の一環である。複雑な漢字には、白川静が説いているように、古来からの風習や儀式の跡が残されており、そういうものに庶民に触れられると困るから隠してしまおうということが目的で、言葉狩りも同様である。とはいえ体制としてはもうどうしようもないので、ひっそりと古の伝承を語り継ぐ荒野の隠者のようにして知恵が保存されるほかはないのであろう。