『字通』と読む漢籍 老子 運夷第九
『字通』『字訓』で日本語を読み直す
日本における知識人の教養のすべては漢籍に行き着く、ということは私が高校生のころから思っていたことだったが、文学やら漢籍やらをやっても仕事にならん、商売にならんというような変な洗脳があり、漢文も古文も受験に必要な程度に留めて、それ以上は深入りしないという妙な自制のようなものがあった。しかし経済学はデタラメで、植民地日本においてはどのみち資産形成など無理筋で、よしんば資産を作り有閑階級となったところで結局のところ溢れんばかりの退屈に苛まれることになるということがはっきりした今、金があろうがなかろうが漢籍を読むことが人生の救済であろうという論に落ち着いている。外国人に日本語を教えるという仕事もちょこちょこやっているが、漢字の字源や大和言葉のルーツを解説すると大変ウケがいい。
少し前は私自身が英語でしゃべる動画も作ったりしていたが、当然のことながら私は日本語で話すほうが英語よりも圧倒的に深い内容を話すことができるし、熱心な外国人はかなり日本語のレベルが高い。中途半端にありがちな内容を下手な英語で解説するよりも、東洋文化の精髄を簡易な日本語で解説するほうが、私自身の研究も進むし、高度な内容を勉強したい外国人にとっても面白いだろうということで、最近はもっぱら漢籍を耽読している。
日本における漢字といえば白川静で、かつては私も不勉強のために漢字字典のちょっと高級なものを作った人ぐらいにしか認識していなかった。白川の三部作といえば『字通』『字統』『字訓』である。『字通』『字統』は甲骨文字や金文体など、漢字のもともとの姿も書いてある詳しい字典くらいにしか思っていなかった。
白川静以前の漢字学は、後漢の時代の許慎が書いた『説文解字』という本に基づく漢字解釈が支配的で、これが金科玉条として崇められていた。ところが、近代以降に殷代の文字を刻んだ甲骨が大量に出土し、許慎の時代には知られていなかった漢字本来の姿が実証的に判るようになってしまったのである。それによって旧来の字学が大きく覆って、古代の人々の生活の様式がよりよく判るようになったという革命的な出来事だったわけである。
『字通』は有名だが、『字訓』というのもある。『訓』というのはもちろん訓読の訓で、『字訓』は漢字字典ながら大和言葉についての字典である。これは文字を持たなかった古代日本人が、漢字をいかにして大和言葉に当てはめていって解釈していったかということを解説したものである。もともとの日本語をどうやって漢字で表記するかという努力の跡は、稲荷山古墳出土の鉄銘剣を始め『古事記』など様々な文字資料から追跡できる。白川静のもともとの関心は『万葉集』と『詩経』を比較対照的に読んでいくということで、『前期万葉論』『後期万葉論』といった万葉集に関する著作もある。
そういうわけで、『字通』と『字統』を読んでいけば、漢字のもともとの姿(甲骨)がどのようなものであり、何を表すものであったかと、それがどのように日本語の中に取り入れられていったのかが分かるというわけである。これは思いつき的に知識を断片的に書いても総花的で面白くないため、やはり中国古典を読みながらそこで登場する文字や表現について白川字典を紐解いていくのがよいだろう、というわけで最近は『新釈漢文体系』の気に入った古典を読みながら字典を引くという作業を行っている。中に面白いものがあればnoteに記事として書いていき、ときどきは英語ブログにも書こうと思う。これはそういう漢籍読み直しの記事の始めである。
老子 運夷第九
持而盈之不如其已。
揣而鋭之不可長保。
金玉滿堂莫之能守。
富貴而驕自遺其咎。
功成名遂身退天之道。
持而盈之不如其已。揣而鋭之不可長保。
「盈」の上の部分はタライ(盥)の中に人が座して沐浴し、大腿が盛り上がっている様子を象る。従ってタライに水を満たす様をいい、盈盈とは水の満ちる様をいう。「盈虚」は月の満ち欠け。「持して之を盈たす」は「タライに水をいっぱいに張って、こぼれないように持つ」ということ。不如其已は馬鹿げているということ。
「揣」の旁は耑で、若い巫女が髪を振り上げて祈祷する様を象る。而は我々がならう漢文では置き字とされてほとんど無視されるが、これも結髪をしない人の姿を正面から見たもので、雨乞いをする巫女の姿とされる。これに雨を加えると需要の「需」で、demandの訳となり「需める」とか「需つ」と読む。 しかし原文では「鍛」の仮借であろうとされている。仮借とは音が同じなので別の字を転用するということで、ここでは揣が用いられているが、意味としては「鍛える」ということ。
タライに水を張って、こぼれないように持ち運ぶというのは馬鹿馬鹿しい。剣を鍛えて、鋭くしてもそれを長く維持するのは難しい。
金玉滿堂莫之能守。富貴而驕自遺其咎。功成名遂身退天之道。
「莫」は「莫し」と訓読する。莫は艸に日で、草間に日が沈んでいく様をいい、転じて否定詞として用いられる。さらに日を加えると「暮」になる。金銀財宝を部屋いっぱいに積み上げても、これを守りきることはできない。富貴であっても驕れば災いの種を遺す。功成り名を遂げたならばさっさと退くのが天の道である。これは特に解説を要しないだろう。
老子は孔孟のような徳や世俗の栄達を真っ向から否定し、無為自然に生きることを説いた。「金玉滿堂莫之能守 富貴而驕自遺其咎」は掛け軸にして飾っておきたいような一節である。