次代の富裕層の楽しみは
不換紙幣・イージーマネーの時代が終わる、ということを書いたり話したりしてみても、それが分からない人にはどうやってもわからない、ということが最近ようやく分かった。本当に「わかった」というのは、概念的に理解するだけではなくて、ふとした瞬間や自然な思考の働きとして、もはやそういう方向にものを考えてみたりすることすらなくなる、というような状態で、最近はもはや誰かにそれを説明してみようと思うことすらなくなった。
経済情勢の話というのは、マスコミや書籍、識者が語っていることや経済指標のデータを見てどうこうという側面もあるが、それ以上に重要なのはそうしたデータや言語には表れてこない兆候や手がかりを読み解くことだ。たとえばインフレも、いまのようにマスコミが連日騒ぎ立て、実際に店頭での価格が上昇する何年も前から、店でのちょっとしたサービスが悪くなるとか、商品の国際価格が上昇するとか、そのような兆候がたくさん現れるようになっていて、ニュースで一般人にも分かるようになるころには本当の状況はもう次の段階に進んでしまっている、というのが実相だ。
そういう兆候レベルの話をしても、誰も理解してくれないということも分かった。モノの値段が上がるというのは実際に自分がふだん買い物する店の表示価格が上がるという段階にまで来なければ分からないという人がほとんどだ。それでも、自分自身の備忘と、あとでオレは前からそう言っていたというアリバイ作りのために、記事はぼつぼつ書いていこうとは思っている。
インフレの次の段階の経済は、貨幣など意味がない、という時代になるだろう。完全な貨幣経済の終焉というわけではないが、貨幣によって数量的に表示される指標が意味をなさなくなる。現代人はすぐにモノの価値を数量換算するが、これも一つの愚民化で、本来モノの価値がわかるためにはそれにまつわる様々な知識や経験が必要だった。骨董品の目利きのようなものだ。
教育も本来は、偏差値の高い大学とか収入の高い仕事に就くためのものではなく、世の中に存在する様々なものに関する知識や物語を楽しむためにあるものだった。近代に入り、あらゆる宗教や価値体系を支えるナラティブが脱構築された。経済の面では不換紙幣が溢れかえり、デジタルな定量的な指標の大小を競う以外に価値の基準を持つことができなくされてしまっている。だからカネを使って見せびらかす以外に、自分自身の存在を他人にアピールする術を知らない人が多い。
次代には、定量的な指標や貨幣によるズルのできない熟練や経験がより高く評価されるようになっていくだろう。たとえば1,000円の本に1万円出したからといって、10倍速く読めたり、10倍多くの知識を得るということはできない。筋肉を鍛えるのも、食事やトレーニング設備に投資するということはあるだろうが、10倍カネをかけたからと言って10倍筋肉がつくわけではない。このように、貨幣によるワープやズルを超越した、本当に日々意識を向け、コツコツと鍛錬を積まなければ得られないものだけが価値があると見なされるようになる。貨幣をたくさん持っているだけでは無意味、あるいはカネを出せば買えるようなものにはさほど意味がないという時代になっていく。ほんらい人類のあり方とはそういうものであったはずで、中世や古代のころの人類のように回帰していける人だけが、自分なりの幸せを見出して生きていけるようになるのであろう。