日本の歴史を読み直す その5 縄文人の暮らしのあとを辿る
函館には世界遺産に登録されている縄文時代の遺跡があり、先日そこに行ってきた。
北海道・北東北の縄文遺跡群は、北海道6つ、青森8つ、岩手1つ、秋田2つの合計17の遺跡で構成される。そのうちの二つが函館東部、函館市街から車で1時間半ほどのところにある垣之島遺跡と大船遺跡である。
縄文時代は紀元前13,000年前から紀元前400年まで続いたとされるが、集落の展開や精神文化の発展度合に応じて6つのステージに区分される。
ステージⅠは定住の開始で、1-aとして「居住地の形成」が紀元前13,000年前から紀元前7,000年ごろにかけて、1-bとして「集落の成立」が紀元前7,000年前から紀元前5,000年前にかけての二つの時期にさらに区分される。集落の成立は居住域と墓域が分離されることによって見分けられ、垣之島遺跡は1-bのステージに該当し、墓域と思われるエリアが発見されている。中央部分に丘状遺構と呼ばれる小さなマウンドがあり、青龍刀型石器や石棒といった実用向きではない遺物が集中して発見されていることから祭祀・儀礼が行われていたものと推定されている。
ステージ2は「定住の発展」とされ、2-a「集落施設の多様化」、2-b「拠点集落の出現」にさらに二分される。2-aでは住居と墓のほかに、貯蔵施設やゴミ捨て場の形成が見られ、2-bでは祭祀場が顕著になり、多様な祭祀施設が現れるようになる。大船遺跡はこの2-bの段階に相当する。大船遺跡では垣之島遺跡に比べると、竪穴式住居のあった場所がより深く掘られており、半地下と呼べるほど深いものもあり住居としての発展がみられる。
竪穴式住居の木組みを見ると、これが神社の神明造に発展していくことがよくわかる。神社の千木や鰹木は、もともとの竪穴式住居の木の組み方によって生じた部分が、後代になっても形状だけを踏襲するために設けられたものだと一目でわかる。縄文文化が日本文化の起点だということがこれを見ても察せられるのである。
垣之島遺跡も大船遺跡も、海が見える高台に位置しており、海抜は30~50メートルほどの場所に展開している。海の反対側には栗林が広がっており、津波が来ても被害は少ないし、漁や採集に出かけていく出発点としても非常に好都合な場所に形成されている。
垣之島遺跡に隣接する縄文文化交流センターは、縄文時代の出土品が数多く展示されている。また、2007年に国宝に指定された中空土偶(カックウ)もここで見ることができる。土偶は大別して中が詰まった中実土偶と空洞になっている中空土偶があり、南茅部で出土したので茅の中空土偶で「カックウ」という愛称がつけられている。北海道唯一の国宝である。ほかに国宝となっている土偶は「縄文のビーナス」、「縄文の女神」、「合掌土偶」、「仮面の女神」の4つである。
大船周辺から車で20分ほどのところには鹿部の道の駅がある。ここは間欠泉で有名で、足湯に浸かったり間欠泉の蒸気で蒸し鍋を作ったりすることができる。
私はたらこ定食(1,200円)とウニ茶碗蒸し(400円)を食べた。
帰り道は大沼国定公園の方を経由して帰ってもよかったのだが、せっかくなので函館東部の恵山を経由して帰ることにした。
恵山の道の駅にも食堂があり、ふだんはなかなか食べられない店が開いていたので、たらこ定食を食べたばかりなのに海鮮塩ラーメンを頼んで食べた。
おそらく世界的に、これまで語られてきた歴史が嘘で、古代や考古学の時代から歴史を振り返りなおさなければならないという潮流が出てくるだろう。歴史観を変えられない人たちは別にそのまま放っておけばそのうちいなくなるだろうから、そういう連中は無視してどんどん自分なりの調査をしていくべきだ。
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