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チューリップとアサガオの熱病
投資や投機について、歴史から抽出できる出来事を探すと、まず突きあたる物語がある。いまから400年ほどまえのことだ。
1630年代のオランダで、チューリップ・バブルという社会現象が起きた。正確にいえば1633年から37年にかけて発生したもので、経済が不可解な興奮状態におちいった。アメリカの経済学者ジョン・ガルブレイスによると、1636年にはチューリップの球根1個が新しい馬車1台、葦毛馬2頭、馬具一式と交換できたという。
イギリスの作家で歴史学者のマイケル・ダッシュは、チューリップの球根12個を買うのために一六三七年初春、6650ギルダーを支払った人物がいたと書いている。家族全員が1年間暮らすのに300ギルダーあれば足りた時代のことだ。どう考えても、まともな話ではない。ガルブレイスは「ユーフォリア(euphoria)」という言葉をつかってこの状態を記述している。すなわち、熱病におかされたような陶酔状態のことで、ひとたび″罹患„すると冷静な判断力が消え失せてしまう。
チューリップがあれよあれよという間に高値になっていくさまは、魔法で美しく変身するシンデレラさながらだが、やがて午前零時になると魔法はとける。
それは1637年2月3日、火曜日のことだった。北海沿岸の町ハールレムの居酒屋では、いつものようにチューリップの競売会がはじまった。ところが、どうも様子がちがった。チューリップは売りにだされているのに、買い手がつかないのである。売り値をさげても、まったく入札者はあらわれなかった。なにが起こっているのか、だれにもわからない。ただ、異様な雰囲気だけが居酒屋を支配し、やがて人々はこの事態に騒然となった。自動車も電話もない時代だったが、2日か3日のうちにパニックはオランダ全体に広まっていったのである。
考えてみれば、その花の寿命はわずか1週間ほどにすぎない。球根自体の寿命も2、3年でつきる。たしかに球根植物のため、同じ遺伝子をもったクローンをつぎつぎ生みだすことは可能だ。かといって、その増殖性が投機の対象となるほどかといえば、そうではないだろう。
チューリップが社会の注目を浴びた背景には、15世紀なかば以降に大航海時代が訪れたことと大きく関係しているだろう。当時のチューリップはトルコから導入された新品種で、めずらしかった。その新規性がユーフォリアをもたらすひとつの要因ではあったのだろう。
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日本では、江戸時代後期にアサガオ・バブルが起きている。19世紀初頭の江戸や大坂では、武士から町人、下層民までがこぞって変わり咲きの朝顔づくりに熱中した。変わり咲きというのは、品種改良や突然変異などによって、それまでにはない珍奇な花を咲かせた植物をいう。
アサガオそのものは奈良時代に中国からもちこまれた植物だが、江戸時代になって変わり種をつくる技術が発達してきた。かたちや色が多様になり、それらを組みあわせてさらに新種が生まれる。木版刷りの図譜も数多く出版された。それらを見ると、八重咲きや細長く花弁がわかれたものまで、じつに多種多様なアサガオがある。初歩的なバイオテクノロジーだ。
めずらしいものは高値で取引されるため、下級武士が内職で栽培したほか、庶民のあいだにもアサガオ文化が醸成されていった。とはいえ一年草の植物にすぎず、ましてや新種のアサガオには種子をつくらないものも多い。
アサガオ・バブルも4、5年でブームは去ったが、渦中にある人たちにとっては、ただ咲いてしぼんでいく夏の花がとてつもなく高価なものに見えたわけである。こうした騒ぎがくりかえされるのは、人々のなかにつねにバルブを期待する気持ちがあるからだろう。よほど用心していても、火がつきはじめるともう抑えようがない。しかも、火で身を焼かれているにもかかわらず、そのことに気づかないのである。
比較的最近では、1980年代後半に起きた日本の土地バブルがある。市場が過熱してくると欲望が欲望を呼び、実体のない価値がつくりあげられているというのに、多くの人はその異常事態に気づかない。あるいはなんの根拠もなく、自分だけはこの状況のなかでうまく立ちまわり、痛手を負わずに逃げきることができると思っている。欲望という栄養価の高い食物にたいして、無防備でありすぎるか、満腹中枢が麻痺してしまっている。いずれにしても、欲望についてあまりに無知なのだ。資本主義は、満足することを許さないのである。
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経済学ではこの満足のことを、「効用(utility)」という言葉で表現する。限界効用逓減という用語があって、簡単にいえば、満足の度合いは回を重ねるにつれて少なくなるという現象をさす。甘いケーキを食べつづけた場合、最初のひと口の満足に比べ、つぎのひと口、さらにそのつぎのひと口の満足は、だんだんと小さくなっていく。刺激の鈍化とともに、欲望もまたしぼむことになる。価値とは本来、この効用と欲望が交差するところに生まれ、モノやサービスの価格が決まる。
ゲオルグ・ジンメルは『貨幣の哲学』(1900)のなかで、人があるものを欲望するのは、その対象が手にいれがたいからだと書いている。稀少性こそが欲望を刺激するのだ。
ところが、大量生産と大量消費がベースとなった資本主義の世界では、人々の意識はこの原則の網の目をかいくぐって拡張する。ケーキに飽きればアイスクリーム、あるいはチョコレート、アルコール、音楽、洋服、時計、旅行……なんだっていい。食べすぎれば、つぎはダイエットのためのエクササイズをする。目新しい商品、刺激的な情報、他者との比較、そうしたものが欲望に火をつけ、人々を消費に駆り立てていく。まるで欲望を手にいれるために、欲望しているようなものである。
本来は欲望が発生することで、価値が形成される。ところが、欲望が生まれる以前に、価値があるように見せかけたモノが市場に送りだされる。企業はイメージや言葉によって、<手にいれ難さ>を演出する。大量生産のつぎは少量多品種、やがてモノではなく情報が商品になる。人々が所有に興味を失えば、シェアをうたい、フリーをかかげ、ITを駆使したサブスクリプション(定額課金サービス)によって消費サークルのなかにからめとっていく。この循環が、20世紀後半以降に展開した市場経済の姿だった。操作型資本主義である。脳内を支配されているという意味では、消費者と呼ばれるようになった大衆とは、脳をむさぼり食われている家畜さながらではないか。
なぜ欲望のサイクルにおちいってしまうのか。そこには人間のなかに深く巣食っている空虚感が関係しているのだろう。
2025年、株式市場のバブルもまたすでに熟していることを忘れてはならない。
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