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ふたりの経済学者の目に映った、20世紀初頭の西欧

勤勉で合理的な市民精神が、資本主義の土台にある

マックス・ウェーバーのこの主張は、ヴェルナー・ゾンバルトも認めている。
そのうえで、この市民精神には貴族的生活への対抗心や鬱憤がある、とゾンバルトは指摘した。ニーチェのいうルサンチマンからの援用なのだが、たんに勤勉さや合理性ととらえるより人間っぽくておもしろい。ゾンバルトの指摘は、大衆心理のなかにある暗くじめじめしたものに目をむけていて、それが資本主義発展のエネルギーになったという見方も否定できないものがある。

ウェーバーとゾンバルトの

上流階級はつねに、人々の憧憬と羨望を呼び起こす。と同時に、その背後には強烈な憎悪がうずたかく積みあげられていくものだ。
しかし、それだけではない。
『ブルジョワ:近代経済人の精神史』(1913)のなかでゾンバルトは、ウェーバーの軽視した冒険的な企業家精神が、実直な市民としての商人精神とあいまって、資本主義の発展をうながしたとしている。その冒険精神は略奪や海賊行為すらためらわない黄金への欲望であり、美酒に酔うディオニュソス的興奮に満ちみちている。

ウェーバーかゾンバルトか。
それを判断することは、あまり意味がないだろう。ウェーバーとゾンバルトの論旨はまったく異なるが、ともに人間の内面にその視点の軸をおいているという点は同じである。別ないい方をすれば、資本主義を生産サイドから見るか、消費サイドから見るかのちがいともいえる。

ウェーバーは資本主義をおし進める要因となったカルヴァン派に特有の暮らしや労働のあり方にふれ、厳格なまでに規律を重んじるその方法論的な合理性を強調している。これがウェーバー流の合理化論である。呪術からの解放が近代化をもたらし、資本主義の土台がつくられたのだというのが、ウェーバーの考え方だ。これを「脱魔術化」という言葉で書き記した。
旧弊すなわち魔術からの脱出は科学が社会に浸透していく過程であり、いまではそれが合理化という概念とかなり近いものになっている。呪術的な世界観が宗教と一体化してかたちづくられていた社会は、合理主義にもとづく科学的な世界観のもとに再編成されたというわけだ。

ゾンバルトも『近代資本主義』(1902)のなかで、資本主義的な企業家の理想型として、ユダヤ商人に観察されるような知的で合理的な思考様式を指摘している。これを支えているのは暴利をむさぼろうとする強欲ではなく、知性や道徳といった内面的な気質だとゾンバルトはいう。
旧来の魔術的世界観を脱して、客観的で合理的な方向にむかうという点で、ウェーバーとゾンバルトの主張には共通したものがある。非合理的で呪術的な思考をベースとした社会からの解放、すなわち「脱魔術化」をなしとげた背景には、ユダヤ・キリスト教の倫理に支えられた合理主義があったというのだ。

逆説的にいえば、生活文化に深く浸透していたキリスト教は、宗教革命によって檻のなかに閉じこめられた。そのおかげで、あらたな世界観のもとに社会を構築することが可能になった。
しかし、その底辺にあったのは宗教的な規律や倫理だったというわけである。しかも、ふたりは学術誌『社会科学と社会政策アルヒーフ』の共同編集者として活動し、ドイツ社会学会の創設に尽力した盟友でもあった。たがいの論文に理解を示し、研究対象への科学的なアプローチといった面で共通の認識があったのだ。

荒廃したドイツを見て苦悩するゾンバルト

ウェーバーは1864四年の生まれで、ゾンバルトよりひとつ年下だったが、1920年にスペイン風邪よる肺炎のために56歳で亡くなった。ゾンバルトは1941年まで生きて、78歳で亡くなっている。
ウェーバーの生きていたころまでのドイツは、ヨーロッパの後進国からいっきに歴史の表舞台に躍りでて、世界政策を展開した時代に相当する。
ところが、第一次大戦で敗北したことで、巨額の戦後補償を課せられ、経済が疲弊してしまう。その後、アメリカを発端とした世界恐慌がヨーロッパにも襲いかかった。そのため1920年代から30年代にかけて、ドイツは破壊的なインフレーションに直面することになった。政治や経済はもちろん、社会全体が混乱し、ナチスの台頭を許す温床になったと歴史家は分析する。

老年期にはいったゾンバルトはそのなかで、苦悩し不安をいだきながら著述活動をつづけた。長年にわたって資本主義の研究にたずさわってきたゾンバルトは、しだいにペシミスティックな意見に傾いていく。その晩年は、資本主義にたいしてかなりネガティブな意見をもつようになっていった。
当時のドイツ社会にたいするゾンバルトの認識は、150年にわたる経済優先の時代が、進歩を絶対視する下地をつくったというものだ。そのなかで、貨幣信仰といった風潮が生まれ、生活は快楽主義へとねじ曲げられていった。経済学者、社会学者として科学的分析をつづけてきたいっぽうで、芸術家気質をもっていたゾンバルトにとって、こうした社会変容はいたたまれないものであり、どこか不気味に感じられた。それは、<異教的なもの>として目に映ったのではないだろうか。

その解決策として晩年のゾンバルトが打ちだしたのは、国家主導による社会主義的な自給経済だった。ところが、この方法論はナチスの政策にいつでも回収されかねない危険な要素をはらんでいた。
ナチスとの関連については、これを否定する声もあるが、その是非よりもここで気になるのは、ゾンバルトの転向である。それはなによりも、1920年代から30年代という苦難の時代を生きざるをえなかったことに由来するだろう。厳密な社会科学者として一生をおえることのできたウェーバーに比べて、ゾンバルトのその後の20年間は、客観を重んじる研究者にとって過酷すぎた。

優勢思想から管理社会へ

歴史家でナチス研究にすぐれた業績をあげたデートレフ・ポイカートは、『ウェーバー 近代への診断』(1989)のなかで合理化の危うさにふれている。その内容を大まかに整理してみよう。
ドイツは第一次世界大戦後にヴァイマール体制に移行する。これによって、自由主義的で民主主義的な共和国建設をめざした。背景には、軍部が情報統制をおこなって、戦争についての悲観的な情報を人々に知らせなかったという反省がある。大きく体制が変わることで、芸術文化の方面では、合理主義や機能主義を重視したバウハウスが登場し、技術者的ユートピアが花開いた時期もあった。
ところが、ナチスの台頭がこれを中断させることになってしまった。さらには、世界恐慌による挫折のなかで、社会のお荷物ややっかいになるようなものは排除しようという気分が、技術者たちのあいだに生まれていった。それらが合理主義という名のもとに、優勢思想へと傾き、のちの管理社会につながったというのである。

貨幣への欲望、そこから派生する社会不安に、老年を迎えたゾンバルトは辟易するような荒廃を見た。その<異教的なもの>は、ドイツが第二次世界大戦でふたたび敗北したことによって消え去ってしまったのか。
いや、そうではない。さらに10年をへて、大西洋をはさんだアメリカで繁栄という花を咲かせることになる。それは物質的豊かさに満ち、外見には幸福な生活という衣装をまとってあらわれた。産業界ではフォーディズムやテイラー・システムといった合理的で科学的な方法論がもてはやされることになる。それらの影響もあって、科学技術へのロマンが人々のなかに広がっていった。あたらしい増殖がはじまったのだ。

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