繁栄の裏側に、とり残されたものたち
資本主義と科学技術は、双子の兄弟のようなものだ。両者は手をたずさえて世界を席巻していくことになった。
かつて手塚治虫の描いた鉄腕アトムは原子力小型モーターを胸部にそなえながら、東京の空をビュンビュン飛びまわっていた。ときにはそこで闘い、傷つき、墜落することさえあった。もし仮に原子炉が破損するようなことでもあれば、どんな結果が待ちうけていたことか。
いや、漫画ではじっさいにアトムの心臓部はいくどか破損している。現実世界でそんなことが起これば、とんでもない事態になる。しかし、だれもそんなことは心配しなかった。だれもその意味など知らなかったのだ。
科学技術が資本主義にとりこまれる過程で、ロマンは奇妙なものに変容していく。過大なエネルギーや過剰な物量をあつかうには、それ相応の負荷がかかるのは当然のことだ。そこでは、ウォーホルによるモンローの曼陀羅のように、資本主義の欲望と死があらわになってくる。
ポリネシアやミクロネシアの島々では、モノにはハウ(霊)が宿るという考え方が古くから伝えられてきた。それを指摘した人類学者のマルセル・モースは、『贈与論』(1924)のなかでこう書いている。
贈り物すなわちタオンガには、「それを受けとった個人を破壊する祈りがこめられている」と。モノを贈与されたならば、かならず返礼の義務を負うことになる。ハウがそれを強要するのだ。返礼をおこたれば、精霊によって破壊の仕打ちをうけることになる。いいかえれば物質的繁栄のなかには、破滅の観念が刻印されている。生の過程に死がビルト・インされているといういい方も可能だろう。
私たちは医療の問題として、あるいは生物学的な問題として、死をあつかい、これを脱社会化してきた。死は社会の外におかれることで、隠蔽され、人々の意識からも遠ざけられていった。古代の人々は、宗教と呼ばれる以前のある種の儀式性のなかで、死を共同体のなかにとりこんできた。そうすることで、死がもつ象徴の力を獲得していったのである。
たとえば古代の住居跡では、集落の中心に墓がおかれていた。暮らしのなかで、死は生とわかちがたい関係をもっていたことがその配置からおしはかることができる。ところが時代がくだるにしたがって、墓は集落の周縁に移され、さらに外部へと移動していくことになった。死を遠ざける必要が、共同体のなかに生まれたのである。
ジャン・ボードリヤールは『象徴交換と死』(1976)のなかで、「死者と生者の連合をくじき、生と死との交換を破壊し、死から生を分離し、死と死者を禁制で打ちのめすこと、それこそまさに社会的管理の出現のための第一の要点である」と指摘した。わかりやすくいえば、権力が社会を管理するために、生と死を分断したということである。
死および死者をタブー視することによって、資本主義もまた市場の管理をおこなってきたのかもしれない。市場の繁栄、もしくは資本主義の発展は、こうした管理のもとになしとげられてきたと考えることもできる。生と死の交換というよりは、生による死の搾取がおこなわれ、生の増殖にばかりエネルギーを注ぎこんできたということである。
マルクス主義の立場から、資本主義はかつて否定的なニュアンスをもって語られてきた。しかし、その言葉は、ソ連崩壊とともに異なる色彩を帯びるようになっていった。大量のモノにかこまれた拝金主義的イメージから、非物質的で数字だけが加速度的に増殖していくようなイメージへの転換である。
ふりかえれば、20世紀のなかばをすぎたころ、資本主義というのはまだまだ特別な色のついた言葉だった。ヨーロッパにおいてそうであったように、日本においてもその言葉は、守銭奴とかカネの亡者、即物主義といったようなニュアンスをまとっていた。
ところが、資本主義を論じる研究者たちのあいだでは、1950年代あたりから、もはやマルクス主義のいう階級闘争的な視点からこれをとらえることができないという認識が広がっていった。巨大企業の登場によって、19世紀的な資本家や当時の市場経済とは大きくかたちを変えていたのである。資本主義の貪欲さが異様なものではなく、暮らしや社会のなかに浸透していったのである。
じっさい、アメリカ社会はあまたの批判を意に介するふうもなく、資本主義をかかげて生活の豊かさと技術の進歩を追い求めていった。旧ソ連との対比を鮮明にするために、パフォーマンスが必要だったこともある。マリリン・モンローが活躍した1950年代には、商品供給がある程度満たされた社会が実現しつつあった。ところが、そこには戦争や埋没した貧困、精神的荒廃という闇が広がりつつあったのもたしかだ。
ヨーロッパからアメリカにやってきた写真家ロバート・フランクは、この国の虚構にいちはやく気づいたひとりである。
彼はニューヨークで知りあった若い妻と幼いこどもを中古のフォードに乗せ、アメリカ放浪の旅にでた。一年を超えるその旅のなかで、フランクは繁栄の背後にある人々の姿をフィルムに焼きつけていった。そこに写し撮られた人々の顔に笑みはない。彼らは無表情であるか、もしくはなにかに耐えているかのような表情だった。1950年代なかばのことである。
『アメリカ人』(1958)というタイトルで出版された写真集を見れば、繁栄の影にある寂しげな気配がロードムービーさながらの映像的イメージによって展開する。この写真集はいまや古典といえるほどの歴史的作品となっているが、出版当初はアメリカへの冒涜だとして非難にさらされた。偉大なアメリカの姿はそこになく、侮辱的だと感じられたのだ。
物質的という意味では、当時のアメリカ社会はじゅうぶんに豊かだった。中産階級の消費が飛躍的に拡大したのである。ところが、経済界や産業界がそれで満足したわけではない。さらなる需要を喚起し、より大きな利益を求めるために、人々の欲望をなんらかのかたちとしてイメージ化しようとした。偶像の存在が意識されるようになったのだ。
その思惑のなかで、フランクの視線は邪魔でしかなかった。イメージの力が強いということを、資本主義の中枢部にいる人たちは理解していたのである。