サンプリング・アートと記号の氾濫
アンディ・ウォーホルの制作したマリリン・モンローの版画は、その反復性に意味があった。ウォーホルはモンローの顔をシルクスクリーンという版画技法で、色を変えながら同一のイメージをならべている。さらに版画の性質上、いくつもいくつもそれらが複製されていく。そうすることによって、絵画がもつ芸術の唯一性(アウラ)は崩れ、大量生産されるアートが出現していくことになった。しかもそれがかつてないほどの評価をうけたわけである。
このスタイルは1980年代にニューヨークを中心に流行したシミュレーショニズムを、20年前に先どりしていた。
シミュレーショニズムは、メディアなどをとおして拡散普及した既存のイメージを作品にとりいれ、それを大胆に異なるイメージへと変換していくものだ。
画一的な物語を廃し、脱構築というテーマとともに当時の思想や芸術、建築の世界を席巻した運動にポスト・モダニズムがある。シミュレーショニズムもまた、この運動を代表する美術動向となった。
アプロプリエーション(appropriation)という英語は、盗用や流用を意味する。シミュレーショニズムではこの技法をもちいることで、既存イメージを転用をおこなっているが、それだけにとどまらず、サンプリングやリミックスというかたちでより戦略的な展開を見せている。
こうしたムーヴメントを牽引したひとりに、写真家のシンディ・シャーマンがいる。彼女の名が世に知れたのは1977年から80年にかけて制作された『Untitled Film Stills』と題する69枚のモノクロ写真だった。つまり、題名のない映画のスチール写真という意味だ。その名のとおり、この一連の作品で、シャーマンは1950年代から60年代に活躍した映画女優たち扮して、疑似セルフポートレートを撮影した。
その後の作品『Untitled (Marilyn)』(1981)では、カラーフィルムをもちいて、マリリン・モンローに扮した自己を撮影している。特徴的なブロンドの髪、すこし開いた赤い唇、うしろに反らしたからだ。そこではアーティスト自身のアイデンティティを隠され、ペルソナとしてのモンローが強調されている。
しかし、モンローの外観を再現しながらも、カジュアルな服装、床に座っている設定など、予想外の状況をもちこんでいる。それは、ハリウッドのセックスシンボルに対する先入観への挑戦でもある。
シンディ・シャーマンは1954年に米ニュージャージー州グレンリッジで生まれ、ニューヨーク州ロングアイランドで育った。幼いころには人形の着せ替えに熱中したという。この遊びが後年の作品に大きな影響を残したともいうが、着せ替えごっこに夢中になるのは、女の子としてはごくふつうのことだろう。
彼女自身は「私の写真は物語についてのものではなく、役柄=キャラクターについてのものだ」と語っている。ここから見えてくるのは、物語性や演劇性を排して、現在のシンディ・シャーマンの等身大そのものを表現したとも解釈できるだろう。
なるほどそう考えると、シャーマンが扮したマリリン・モンローは、マリリン自身が頻繁に身に着けていたからだの線が浮き立つドレスではなく、地味なシャツと青いパンツだ。つまりカジュアルな普段着姿だった。
そこから浮かびあがってくるのはセクシャリティではなく、なにげない日常性だろう。それがかえって、見る者の心理になにかを訴えかけてくる。日常が強調されるがゆえに、かえってそこに不安なものを引き起こしている。そこから透けて見えるアーティストの意図は、外見とアイデンティティの複雑さについての深い懐疑というものではないだろうか。彼女はみずからの変身をとおして、それを訴えかけている。
この時代、つまり1980年代の日本では、女の子たちがアイドルを真似る現象がいっきにあらわれはじめた。典型的なのが松田聖子の髪形をコピーした「聖子ちゃんカット」の流行だろう。それまでも人気俳優やアイドルに憧れる人たちは数多くいたが、その姿かたちをコピーして社会現象になるというのははじめてではなかっただろyか。それはまさしくマス・サンプリングとでもでもいうべき状況を呈した。
サンプリングはオリジナルに対するパロディではない。パロディには、オリジナルがもつ本質へのアイロニーがこめられている。しかし、サンプリングは本質への関心すら失っているかのようだ。
おそらくシンディ・シャーマンはマリリン・モンローという偶像の本質になど興味はないだろう。聖子ちゃんカットでも同じである。そこにはただ記号だけがあって、自身が変身することが重要なのだ。記号という表面性に憑依意を繰り返していくだけだ。
サンプリングがはじまったころから、資本主義もまた金融というその本性を剥きだしにしはじめる。高度な発展というより、オルタナティブな方向へと舵を切っていくことになった。それまではモノに基軸をおいてきた資本が、なんだかわかのよくわからないものに憑依して、途方もないダイナミズムを発揮しはじめることになった。金融の根本にある貨幣もまた、その本質などはなく、たんなる記号にすぎない。それゆえに、さまざまなものに憑依し、姿を変える。
その点において、両者はとてもよく似ている。
繰り返される変化は、これまで物質やモチーフや衝動や記憶などのに依存してきたアーティストの固定観念を宙吊りにして、強度の反物質的な連鎖へと収斂していく。
ウォーホルたちがつくりあげたポップアートは、ある種の神経症を内側にはらみながらある対象を増殖させつづけてきた。ここでは作品は対象となる物質に強く結びついていた。ところが、シミュレーショニズムではもはや語られるべき対象さえ失って、すべてを宙づりにしたままさまよいつづけることになる。