マリリン・モンローの身体と思考
豊かなブロンドに白い肌、ぽってりとした赤い唇。
なまめかしいボディが、スクリーンのなかで揺れる。
黄金の時代といわれたころのアメリカの男たちは、マリリン・モンローの姿に口もとを緩め、口笛を吹いた。彼女はこうしてアメリカのセックス・シンボルにのぼりつめていった。
「賢い女の子は、自分の限界を知っているわ。頭のいい女の子は、限界なんてないことを知っているの」
これは彼女の言葉だ。
賢いと訳したwiseには、経験や知識が豊かだというニュアンスがある。頭がいいと訳したsmartは、勉強ができるという意味とともに、生きるうえでの頭のよさという感じがある。良識という枠組みのなかを生きるのか、もっと自由に生き抜いていくのか。それをしたたかに考えていたモンローの姿が、この言葉から浮かびあがってくる。
少女期のノーマ・ジーン
マリリン・モンローはアメリカ西海岸のロサンゼルス郊外、ブレントウッドに生まれた。1926年6月1日のことである。多くの映画関係者がニューヨークからロスに移り住んできた時代で、高台にあるこの町にも彼らが家を構えはじめていた。
医師の書いた出生証明書には、ノーマ・ジーン・モーテンソンとある。しかし、出生後ほどなくして、母親のグラディス・ベイカーは娘の姓をモーテンソンからベイカーへと変更する届けをだしている。モーテンソンというは再婚相手の姓だ。変更届はふたりの不仲が原因だったのだろう。
2歳のころに両親は離婚している。ただし実の父親は別にいて、母グラディスの勤める会社のセールスマンだったスタンリー・ギフォードだとされる。そのあたりの事情は、はっきりとしない。ノーマ・ジーンの身辺は、その出生時からもやもやとした謎につつまれていた。
幼いころは、里親のもとなどをたらい回しにされてすごす。ママと呼べないおとなたちに育てられた寂しさは、幼い女の子の心にどれほどの傷を負わせたことか。7歳のとき母親のもとにもどされたものの、祖母の自殺、母親の精神疾患という事態が少女を襲う。9歳のとき孤児院にいれられ、そこで育った。
16歳になったばかりのとき、航空機の整備工だった21歳のジム・ドアティと結婚する。高校は中退した。
1940年代のアメリカでは女性の平均初婚年齢が21歳5カ月、男性は24歳3カ月。それを考えても、ふたりはかなり年若い新婚夫婦だった。日本との戦争がはじまって半年後のことで、ドアティは海軍に憧れたあげく、商船の乗組員としてサンタ・カタリナ島の海軍基地で勤務することになった。ロサンゼルス沖40キロほどにある島である。ノーマ・ジーンもこの島で暮らしはじめた。しかし、ドアティが輸送船で南太平洋にむけて旅立つと、彼女はロスにもどって、航空機部品工場に職場を見つけた。
19 歳のとき、工場で撮った写真が雑誌に掲載される。これがきっかけで、映画会社と契約、女優の道を歩みはじめた。そのときにつけた芸名がマリリン・モンローである。夫のドアティとは距離ができて、20歳のときに離婚する。しかし、映画界ではなかなか芽がでずに、ヌードモデルなどをして食いつないでいた。そのまま時間がすぎていったが、25歳になると先に書いたように風向きが変わってくる。1951年のことだった。
いくつかのドラマに出演して注目されはじめ、53年には映画『ナイアガラ』『紳士は金髪がお好き』『百万長者と結婚する方法』で立てつづけに主役を演じた。Dumb blondeという言葉があって、直訳すると「おバカな金髪娘」というような意味で、性的魅力にあふれるけれどちょっとゆるいところのある女性をさす。彼女はそのキャララクターで売りだし、成功をおさめたのだ。同じ年、彼女のヌード写真が雑誌『プレイボーイ』創刊号のセンターページにも起用され、大きな反響を呼んだ。
スターダムの光と影
またたく間に有名女優になったモンローは、27歳でニューヨーク・ヤンキースのスター選手だったジョー・ディマジオと2度目の結婚をする。
1954年1月、ふたりは冬の東京へむかった。2月1日に羽田空港に到着し、熱烈な歓迎をうけた。日本で2週間あまりすごしたあと、モンローは国連軍慰問のため、ディマジオを残して朝鮮半島にでかけていく。夫の反対をおしきり、喧嘩するようにして訪れた韓国だった。2月16日から19日のあいだにモンローは10カ所以上の駐屯地を訪問し、寒空のしたで肌をさらしながら野外の特設ステージに立ちつづけた。2月の終わりに帰国してからも、モンローは多忙をきわめる。9カ月後に結婚生活は破綻した。
翌年には作家のアーサー・ミラーと結婚。5年間をともに暮らすが、やはり破局を迎えた。ミラーと離婚する2年まえの1959年からは、上院議員だったジョン・F・ケネディ(その後大統領就任)と不倫関係にあったこともわかっている。
ほかにも噂のあった俳優や実業家は数多い。このころにはすでにアルコールとドラッグで、彼女はからだも心もボロボロになっていた。1960年1月からは医師のカウンセリングをうけはじめる。
1962年、夏の夜のことだ。
ロサンゼルス郊外ブレントウッドにあるモンローの自宅で、メイドのユーニス・マリーが妙な胸騒ぎを覚えた。8月5日の午前3時ごろだった。マリーがモンローの寝室までいくと、隙間からあかりが漏れている。ノックしたが返事はない。外にまわって寝室をのぞき見ると、ベッドのうえでモンローがうつぶせに倒れていた。
医師が呼ばれ、ほどなくモンローの死が確認された。発見されたときは全裸だったという。受診当初は週1、2回だった医師のカウンセリングも、死の直前には1日に2、3回という狂気じみた回数にたっしていた。
死体検案書に記された死因は、急性バルビツール中毒。睡眠薬のオーバードーズだが、その死に謎は多い。CIAによる暗殺説もある。まだ36歳という若さだった。
公称では身長166.4センチ、体重53.5キロ。スリーサイズはB94、W61、H86とある。これが正確なものとは思えない。あきらかにバストサイズが目立つように配慮した数値に見える。だからといって、彼女の魅力が色褪せるわけではない。むしろその虚構性にこそ意味がある。
モンローはアメリカの物質的黄金時代のアイコンとなり、それゆえにデフォルメされていった。その人生はまさに、増殖という虚構のなかにあったともいえるだろう。
増殖のなかにある崩壊の因子
マリリン・モンローの遺体は数日間、警察の遺体安置所に放置されていた。いかに彼女が孤独だったのかがよくわかるだろう。
結局、遺体をひきとったのは二番目の夫だったジョー・ディマジオである。
検死解剖を担当したのはトーマス・野口こと野口恒富という米在住の日本人法医学者だった。野口はその後も、女優シャロン・テートや歌手ジャニス・ジョプリンなど、数多くのハリウッド・セレブ、さらに遊説中に凶弾に倒れたロバート・ケネディの検死解剖もおこなっている。野口の名は全米に知られるようになり、のちにアメリカ最大規模の検視局であるカリフォルニア州ロサンゼルス検視局局長や全米監察医協会会長などを務めることになった。
8月5日。
その日は野口にとってなんの変哲もない日曜だった。いつものように出勤すると、デスクにメモがあった。それは上司からのもので、マリリン・モンローの検死解剖をするよう告げられていた。
そのころの検視局は人手不足で、ほとんど休みもなく変死体の解剖に明け暮れる日々だった。当時35歳だった野口は準備を整え、ステンレス製の解剖台のまえに立ち、遺体にかぶせられたシーツをめくった。
そのとき、裸で横たわる女性の姿に一瞬息を飲んだという。あまりに美しかったからだ。
セックス・シンボルとして強烈なスポットライトを浴びてきたからだ。どうしても人々の関心は、そこにむかってしまう。その魅惑的な曲線や量感のあるフォルムは、映像としてくりかえし再現され、ひとつの伝説としていまも語り継がれている。話題としてとりあげられ、再生産されつづけることによって、その身体イメージは圧倒的な存在感を見せつける。
同時にそれは、マリリン・モンローという栄光の光と影を、せつなく、アイロニカルに物語っているのだ。
だれにも愛されなかった幼少期の記憶は、トップ女優になったのちも彼女の自己評価を低いままにしていた。マリリン・モンローはハリウッドの中心にいながら、アウトサイダーのままだった。それゆえに。華やかであるのだが、同時にどこか寂しげで、謎につつまれている。
「星たちは生まれ、輝き、消えていくの。なかには、ほかの星よりも明るく輝きく星もあるわ。でも、いつか消えていくの。私たちの世界も同じよ」
欲望の中心は空虚だったのだ。
このいかにも風刺的な現実は、たえまない増殖に明け暮れる資本主義の姿を暗示しているかのようだ。
増殖に意味などなく、それは幻にすぎないのかもしれない。しかも、増殖のなかには崩壊の要因がビルト・インされている。
そう思うと、マリリン・モンローという存在が、ディジョンで火あぶりにされたサンタクロースにも重なってくる。両者はともに人々に惜しみなく幻想の欲望をあたつづけた。それは、唯一性というもの信じて、独自のオーラを放つことで輝く幻想だった。
しかし、そのオーラは新しい資本主義の波に飲みこまれていく。唯一性は均質性におきかえられ拡散する。