サロメのような資本主義
タマラ・ド・レンピッカの悩ましいまでの美貌。
自由奔放な行動様式。
魔性さえ秘めた蠱惑的な性の魅力。
それらはどこか貨幣の性質を思わせる。その強度、疾走するようなスピード感、なにものにも束縛されない自由さ、あるいはとろけるような官能から悪趣味になりかねない奢侈までもが、貨幣そのものではないか。
狂乱の時代と呼ばれた1920年代のパリにあって、レンピッカの奔放な生き方とその独特の絵は、不思議な輝きを放っていた。不思議な、というのは、彼女にまつわるものがバラバラに動きまわり、好き勝手に戯れているにもかかわらず、あの時代のひとつの象徴として妖艶な存在感をもちえているというような意味だ。
レンピッカの描いた緑色のブガッティに乗った「オートポートレート」は、まさにその不思議な感じをよくあらわしていた。豪奢で、エロティックで、クールで、自由気ままなその気配は、手にしたかと思えばスルスルと逃れていくマネーの流れに、どこか近しい感覚がないだろうか。
国家の管理のもとにあるかと思えば、わずかな隙間を見つけだして逃走する。密かに潜伏していたはずなのに、意外な場所でなにやら蠢いていたり遊んでいたり。気がつけば巨大な奔流となって、すべてを飲みこんでいく。
おそらくエロティシズムと貨幣のあいだには、共通するものが流れている。それは欲望という名の狂想曲で、どこか妖しげな旋律を奏でている。エロティシズムが繁殖という役割から逃れていくように、貨幣は国境を越え、交換の媒体という機能さえふり払って、欲望の暴走を呼ぶ。
欲望と資本主義を関連づけ、新しい概念として提示したのはジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリのふたりだった。
彼らの共著『アンチ・オイディプス』が出版されたのは1973年のことだった。哲学と精分析という異なる専門領域をもつドゥルーズ/ガタリが、協同してテクストをあらわすというのはいかにも構造主義の嵐が吹き荒れた70年代的な出来事だ。しかも、この著作のなかでは、資本主義の根幹にあるのは欲望の拡張だという考え方が、魔術のように披露された。
欲望を資本主義のドライビング・フォースとする見方はいまでは当然のように語られるが、当時はまったく新しい視点として知識人たちをざわつかせた。
日本では1980年代にはいってポストモダン思想や記号論のブームが訪れ、フランス現代思想がつぎつぎ紹介されるなかで、ドゥルーズ/ガタリは重要な位置を占める存在として認識されていた。
その流れをうけて、『アンチ・オイディプス』の翻訳版が1986年に出版される。バブル経済の先駆けとなった年で、フランス語版の出版からはすでに13年がすぎていた。
この『アンチ・オイディプス』のなかに、
「器官なき身体」
という奇妙な概念が登場する。
もともとはフランスの詩人で演劇人でもるアントナン・アルトーの言葉だが、欲望と資本主義の関係を語るためにドゥルーズ/ガタリによって肉づけされ、あらたな生命があたえられた。
人間の身体はふつう、さまざまな器官が有機的につながり、脳によって一元的に管理統括されているものとしてイメージされる。
ところがこれとは別に、生存機能を維持するための器官をもたず、階層のない無秩序な身体が存在するという。
これが器官なき身体である。
わかりにくい表現だが、もうすこしつづけよう。
ここでは、エネルギーの強度だけがあって、たえず生成と変化がくり広げられている。かなり観念的ではあるが、その姿にこそ、まさしく資本主義の本質があるのだとドゥルーズ/ガタリは語っている。
私たちは有機的な結合という連続性への郷愁を、いやおうなくもちつづけている。
と同時に、
その連続性という規制からつねに逃れでて、自由であろうとする抗しがたい誘惑に駆られているのだと。
どうもわかりにくい。誤解を承知で、すこし大胆なたとえをしてみよう。
美しい顔立ちというものがある。そこにはおそらく、目や鼻など各部位の数学的な形状と配置があるだろう。しかし、その調和から逃れでてなお、人の心を悪魔的にとらえる美というものもある。いやむしろ、この逸脱にこそ人の欲望は刺激される。
欲望への視点が登場するまでは、資本の蓄積や生産の拡大、あるいは資本家と労働者の闘争という角度から、資本主義が語られてきた。
たしかに例外もある。たとえばジョルジュ・バタイユのいう「呪われた部分」はそのひとつだろう。バタイユはこの概念をもちいて、余剰エネルギーの消尽が経済活動にあたえる影響について、ユニークな考察をおこなった。そこにも人間のもつ原始的な依存性は語られていたが、欲望を中心にすえた『アンテ・オイディプス』の新しい世界観は、まったくそれらとは異なっていた。
ドゥルーズ/ガタリは人類の歴史を原始国家、専制国家、資本主義国家の順番でとらえ、その背後に「欲望する機械」 (machines désirantes)が作用していたとする。その機械は秩序だったシステムから離れ、接続と切断をくりかえしながら、自己増殖していく。
乳房のエロティシズムが生殖から遊離し、刹那的で享楽的な欲望に身をゆだねるように、貨幣もまたその素材やかたちを超えて活動をはじめるのだ。
ホモ・サピエンスのメスがもつ乳房は、他の種族のそれとは決定的に異なる役割をになってきた。授乳だけではなく、オスの発情を誘発する装置のひとつとして、それは機能する。おそらく臀部がはたしていた役割を、代替するかたちで進化してきたのだろう。
興味深いのは、機械という言葉のつかい方と、それががつねにmachinesと複数で語られていることだった。機械という無機的なものが、あたかも人間のように欲望するのである。くわえて、その機械はひとつひとつが自分勝手に動いているにもかかわらず、それらが複数が集まることによって、ある結果にむけて作動しているのである。
これを肉体におきかえるらなら、欲望する機械という世界観のなかでは、たとえば乳房と唇は単独では機能しない。にもかかわらず、それらが組みあわさることで遊戯的な連動が生まれ、本来の役割とは異なるかたちで機能することになる。
熱に浮かされたかのように、欲望が憑依するのである。
理屈っぽい話がつづいてしまったが、思想の解説をすることが目的ではない。ドゥルーズ/ガタリの妥当性を検証するためでもない。僕たちの内部で蠢いているさまざまな欲望について、その奇妙な性質を見てていきたいという思いからだ。それには、欲望のもつある種の機械性についてふれておく必要があると考えている。
食欲や性欲、金銭欲、権勢欲、支配欲といったものは、かたちあるものにとり憑きやすい。「欲望の機械化」という表現もできるだろう。それは憑依ともいえるが、異化というほうがより的確もしれない。
つまり、かたちを変えるのである。すると、さまざまな欲望のもともとの目的が、別なものとして発露される。それをあらわした典型的なものとして、「可愛さあまって憎さ百倍」という慣用句があるだ。
イギリスの作家オスカー・ワイルドは、19世紀末に『サロメ』という戯曲を書いた。聖書にも登場する実在の女性をあつかったもので、その美貌と残虐性を思いだす。
舞台は西暦30年ころのエルサレム。
若く美しい王妃サロメは、王の誕生日に妖艶な踊りを披露し、その褒美として望みを聞かれた。サロメが所望したのは、みずから思いを寄せながらその気持ちを手にできない予言者ヨハネの首だった。
王はサロメの望みを聞きいれ、ヨハネは首をはねるよう命じる。サロメはそれを見てどうしたのか。彼女は血にまみれたその首に口づけをし、そのまま錯乱状態におちいってしまった。そして、非業の死をとげることになる。
サロメが見せた欲望の異常性は、さまざまな芸術家が絵や文章のモチーフにしてきた。多くのサロメ像を描いたフランス象徴派の画家ギュスターブ・モローは、こんな言葉を残している。
血まみれの首をまえに、すでにその刺激に倦んでいるサロメの姿は、欲望がもつ不思議さを端的に物語っているではないか。それは、必要をはるかに超えたユーフォリック(euphori)な狂騒というふうに目に映る。僕たち自身も、気づかないうちにその狂騒にとりこまれてはいないだろうか。
(序章 資本主義とエロティシズム 2/4)