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ぽつりぽつり。


私は感情を上手くコントロールできない方だという自覚がある。

「感情の起伏が激しい人とは距離を置きましょう。」

そういう記事はよく読むし、自覚することでそう思われないように心掛けている。意識的に止めないと止まらない。

今日はそんな私の暴走日記を書いてみようと思う。日記は不得意なので、大目に見ていただきたい。(保険)


私はもともと母の優しい教えにより「人を信じる気持ちを忘れてはならない」「人に親切に優しくすべきである」ということが絶対ルールとして刻まれている。「絶対」であるので何があっても、そのルールを感情から取り除くことは出来ない。

そんな私の感情がコントロールできなくなってきた時期には心当たりがある。

中学生の時にいじめにあった。それがきっかけだと思う。

世間では「そこまでじゃないのに」「おおげさな」といわれる程度かもしれないが、「人間は優しい」「人間は信じる価値がある」そんな考えが真っ赤なウソだと骨身にしみて毎日のように刷り込まれた日々は、今でも強烈に私を蝕んでいる。

当時いじめをする人々は自分たちを悔やむなどという概念はなく、毎日いじめのターゲットを変え、一番いじめに屈しなかった私を三年に渡りいじめ続けた。信じていた友たちは、自分が次のターゲットになることを恐れ、口をつぐみ無視し口裏を合わせ、利用するだけ利用して私を「守る価値のない人間だ」と全力で表現し続けた。

いじめの内容について書いても面白くないので一番泣いたことだけ書くと、物理的に跡がくっきり残るほど噛みつかれ、風が当たっただけでも痛い私の頬の噛み傷を三回ビンタし「ほら、これで可愛くなった!」とみんなの前で大笑いされたことかしら。あれは衝撃的だったし、決定的な証拠を得た瞬間でもあったっけ。ま、その程度のことよ、私がいじめられてたことなんて。

彼ら彼女らを今更になって恨むつもりもないし、恨んだところで何一つ変わらないとは百も承知だ。それぞれが全国散り散りになっている今、関わりたくない以外の感情は持っていない。

問題はその時から失い始めた「自信」だと思っている。

誰かの前で話をする時に「あいつ、あの程度であんな話をしてるの、ウケる」「俺らのこと、友達だと思っているんじゃない?(笑)」そう言われているような気がしてならなかった。信じた人間には「利用するだけ利用して、楽しいことは他の奴としよう」「あいつといてもつまんないじゃん」そう思われていると心のどこかでそう思わずにはいられなかった。


とにかく自信が全くなかった。自信というよりも「自分という存在」自体に疑問が止められなかった。

出来が悪いからいじめられたのか。

性格がだめだから誰も助けてくれなかったのか。

何がいけなくて自分だけが村八分にされるのか。

そもそも自分だけがいじめられていると被害者ぶっていることが気持ち悪いのではないか。

一生懸命に働く母にさらに心配を、迷惑をかけてしまってどうしようもない人間じゃないか。

自分一人でこんなことも解決できずに大人を頼るなんて、なんて弱い人間なんだ。


高校に進学し大学低回生までの私が、これらの感情に打ち勝つ為、自信を取り戻す為にとった行動は「自分を強く信じる」という方法だ。ある日無意識にとった行動なので、私がなぜそんな選択をしたかも理解できないし、自分の選択が正しかったとも今では全く思わない。むしろその時代の私は見れたもんじゃなかったと思う。(ほんとその時代の家族・友人全員に土下座したい。)「自分は責められるようなことはしていない」「自分と正反対の意見で攻撃してくる人間は悪だ」そう信じこみ、自分という存在をやっと保っていた。この時点で感情のコントロール方法がおざなりなのは、お判りいただけるのではないかと思う。

それと同時に、中学時代のいじめられる私を見るに見かねた母が私を救おうとかけてくれた「馬鹿にされないように生きなさい」「馬鹿にしたやつを見返すには実力をつけなさい」という言葉を呪いのように張り巡すことで、自分の負けず嫌いの性格に異常な拍車をかけた。本来の自分ではない自分を鼓舞し続け、怒りだけを原動力に生きていた。

常に目指すは完璧。あらゆることで頂点を目指し生きるのは、よく言う「死んだように生きている」状態そのものだった。(論点がずれるので母については省略するが、私の母は大変素晴らしい人間である。)

そのおかげで、高校時代・大学時代では文武両道・才色兼備だなんておだてていただき、羨ましがってもらえる生活を送れた。こんな私に...本当におこがましい限りである。世の中には私以上に苦しんでいる人々がいることもよくよく分かっているし、私を外から見たら「なんと恵まれた人間なのだろう」と思われる方が多いことも分かっているが、それでも私にとってその時代は本当に本当に苦しかった。戻りたいなど1ミリも思わない。

そんな生活を続けて数年後、中学・高校・大学で数人ほど信じられる友人ができ、自信をほんの少し回復しかけていた。勉強には相変わらず打ち込み続け、恋愛など興味がないと言わんばかりに成績優秀者の地位を維持し続け、大学でも信頼できそうな友人たちと穏やかな生活を送っていた。母の教えである「人を信じ、親切にしなさい」にはもちろん従い、友人達には勉強を教えたり、お菓子を差し入れしたり、相談にのったり、お節介もたくさん焼いてしまう程、信頼を寄せていた。

やっと自分が「普通の人間」になれてきた気がしていた。後悔するような人間じゃなくなってきているような気がした。自分が友人たちに必要とされる度に、自分が存在してもいいんだと心から喜んでいた。

しかし大学4年生のころ、その友人数名に呼び出され告げられた。「あなたのペースは高度すぎてついていけないし、何より私たちとあなたは相容れない別人。今のままのあなたと付き合っていくのは難しい。」

明確な拒絶に愕然とした。真っ白になった。何が起きたか分からなかった。

怒りで覆い隠していた感情のコントロールは制御不能になり、自分で自分を抑えることが出来なくなった。それもそのはず、だって制御方法おざなりにして、中学生までで思考が止まっているんですもの。(by 現在の私)

人を信じる教えと、人が信じられない現実。相反する二つの事実から導いた後悔の矢印は、当然自分以外に向かない。

…そっか、やっぱりそうやって調子に乗って普通の人間だなんて威張ったりしたから、神様が天罰を下したんだな。何を偉そうにアドバイスなんかして、人に「こうした方がいいよ」と指摘なんかして...クソだな。

友達たち、私といて苦しかっただろうな。辛いってずっと言えなくて、やっとの思いで言ってくれたんだろうな。ほんっと何やっても満足にできない。何が完璧を目指す、だよ。欠陥品じゃないか、不良品じゃないか。一緒に過ごす人間を不幸にしかできないなんて。何が回復だよ、ちゃんちゃらおかしい。

上記の永遠リピートだった。止まらないし止められない。一年は抜けられなかった、いや正直まだ抜けられていないな。当然の報いだ。納得している。

後日その友人達には真摯に向き合い、謝罪をし、許してあげたという回答をもらった。でも戻れなかった、私がもう戻れなくなってしまった。彼女たちは私を心から信じることはないだろうし、そもそも信じてもらってなどいなかったかもしれない。

頼れるものが何もなかった。信じるものが分からなくなった。勉強を除いて(東大京大程の能力でもないのに)何も残らない自分しかなかった。

家では「完璧な娘」を待っている母がいる。大学では「優秀な1人の生徒」を称賛する教授たち、同期たちがいる。近所には「羨ましい女性」を称える知り合いたちがいる。

どこにも弱った私が寄りかかる場所なんてなかった。生まれた時から凄い人間でも何でもない。弱い自分を変える方法を血眼になって探したな。

やっとの思いで、本とラジオに出会った。

本のタイトルは「アンガーマネジメント」、怒りをコントロールする方法を心理学の視点から解説してあるものだ。怒りを長年原動力にしていた私は、それ以外の感情を即「怒り」に変換していたので、その元の感情である「悲しい」「悔しい」「嫉妬」「理不尽だ」等の区別がつけられなかった。まず怒りを短時間で沈める方法や、怒りの原因を突き止める方法等を学んだ。そして他学部でアンガーマネジメントに関連する講演会があると聞き、申し込んで一人で参加した。そのおかげで怒りに振り回されることも減った。

そしてもう一つ私を救ってくれたのは「一般人配信型ラジオ」である。誰か一般人の配信をラジオとして聞くことも可能、自分がその配信者になることもできるという、不思議なラジオだ。自分の思うがまま自由にできるので、時間的制限も空間的制限も一切ない。そのラジオによって多くの価値観や考え方、それぞれの人生について教えてもらっている。自分は自分のままでいいのかもしれない、そうやって一つひとつ大事な何かが溜まっていく気がしている、そんな日々が今日である。

私はラジオで、一人称を「僕」とすることが多い。LGBTに微塵も抵抗がないことも理由の一つかもしれないが、最大の理由は「自分ではない何かになりたかったから」だ。ラジオでくらい自分じゃない人間に、馬鹿な事を言って嫌われても問題ないように、誰からも期待をされないように、そういった気持ちが強い。

そういった世界で僕は生きているし、私自身も自分を保っている。マイナス思考をしながらも、コントロールできないangerをちらつかせ、それでも人を信じる気持ちは取り除けず、それが今の私。めんどくさい生き物でしょ?なんてこったい。

最後にここまでで「才色兼備」「文武両道」「優秀」「完璧」等の用語を用いて説明してきたが、勘違いしないでいただきたい。私自身そんなことを自らに思ったことは一度もないし、いつになったら完全に「普通の人間」になれるのかと嘆いているほどだ。定期的に褒められなければ、自分自身を保つことが出来ない弱い人間で、褒めてもらうために褒められる努力を少しばかりしているというのが正しい。褒められるほどの才能も力もないのだが。

今この瞬間も私を見捨てずに、僕と仲良くしてくれている人たちに、心から感謝している。本当にありがとう。

そしていつか見捨てられる日を今日も私は想像しながら、そうならないように祈らない日はない。



長々と取り留めのないことを書いてしまいましたが、最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでいただけただけで、満たされた今日の私はよく眠れそうです。おやすみなさい、お互いにいい夢を。



追記:へったくそだなぁ...(笑)

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