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シムノン『仕立て屋の恋』
ひとりの娼婦が殺された。嫌疑をかけられたイール氏は、隣近所の誰からも嫌われている孤独な独身男だった。極端にきれいずきな彼の唯一の楽しみは、アパートの向かいに住む若く美しい娘アリスを覗き見ること―。夜ごと部屋の明かりをつけず窓辺に立って彼女の様子をながめ、静かに恋の炎をたぎらせていた。ある夜、彼は恐ろしい出来事を見てしまったことから、人生の歯車を狂わせはじめる…。愛と誘惑、謎と裏切りの物語。
『仕立て屋の恋』は、仕立て屋が恋をする物語ではなかった……『仕立て屋の恋』には恋をする仕立て屋は登場しないのだった…… 図書館の書棚で初めてこれを発見するまで知りませんでした、 パトリス・ルコントの魅力的な映画『仕立て屋の恋』の原作者がメグレ警視シリーズで有名なジョルジュ・シムノンだということも。
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1930年代のパリ。物語の主な舞台となるイタリア門 La porte d'Italie の辺りは、どちらかといえば下層の移民が多く住むパリ13区。そしてイール氏は、パリからさらに南のヴィルジュイフ Villejuif 界隈の住人のようです。
イール氏はリトアニアから移民してきたロシア系ユダヤ人の子で、父親は仕立屋でしたが、彼自身はどちらかというと職業不明。物語には移民かつユダヤ人(かつ独り者)に対する周囲の歪んだ視線、排他的な感情も交差します。
原題は «Les fiançailles de Monsieur Hire»(イール氏の婚約 )。「婚約」を意味する «fiançailles» (フィアンサイユ) の単語は、原則複数形で使われます。«fiancée» フィアンセ(女)と «fiancé» フィアンセ(男)。婚約はふつう一人ではできない。 イール氏のフィアンセとは......
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シムノンの小説、それもメグレの出てこない小説(「運命の小説」)を盛んに読むようになったのは、この作品がきっかけだったと思います。再読してみると、作家後年の円熟味とは異なる硬さが魅力的な初期の傑作だと、改めて実感しました。女によって運命が左右される男の行く末を描くという、シムノンが生涯描き続けるテーマがすでに始まっています。
ジョルジュ・シムノン『仕立て屋の恋』高橋啓訳 (ハヤカワ文庫)
Georges Simenon, Les Fiançailles de Monsieur Hire, 1933
ジョルジュ・シムノン Georges Simenon, 1903-1989
ベルギーの小説家。リエージュ生まれ。17歳から小説を書き始め、1922年にはパリに出て、多くの大衆小説を書く。1931年からメグレ警視を主人公とする推理シリーズを発表し、広く人気を博す。鋭い心理分析で人生の裏面を描き出す手腕は『ドナデュの遺書』(1937)など、ミステリー以外の作品でも発揮され、高い文学的評価を受けている。
(『読んで旅する世界の歴史と文化 フランス』新潮社、一部改変)