「モンテーニュって、だれ?」
『モンテーニュ逍遙』を読んでくださるみなさんへ
ミシェル・ド・モンテーニュ
Michel Eyquem de Montaigne, 1533-1592
16世紀フランス、ルネサンスの時代に『随想録』(Les Essais, エセー、エッセー)という作品を書いた人。
(キーワード)
ルネサンス Renaissance … 「14〜16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする機運に端を発した、社会のさまざまな変化」(1) で、フランスでは16世紀に盛り上がった。
ユマニスト humaniste ... ルネサンスの時代、「ギリシア・ローマの古典研究を通じて現実的な人間の肯定をもとにした新しい人間の理想像を探究」(2) するなど、ユマニスム(人文主義)を実践した人たち。
モラリスト moraliste ... フランス文学のなかで「随想、箴言、格言、省察、肖像(性格)描写などの形式を採用して、実際的な生活の場における人間行動を観察し、その動機の分析等を通じて人間精神のあり方を探究」(3) した人たち。モンテーニュはその先駆けと言われる。
宗教戦争 Guerres de Religion ... 1560年ごろより、フランスではキリスト教の新旧両派が激しく対立し、途中王位継承問題も絡んで、約四十年間内戦状態が続いた。1572年にはカトリック側が新教徒側(ユグノー)を大量虐殺する事件「サン・バルテルミの虐殺 」が起こるなど凄惨を極める。『随想録』はそのような動乱の時代に書かれた。*同書第1巻第45章では、1562年に起きた〈ドルゥの戦い〉をタイトルにエッセーを書いている。
(引用)
(1) 山上浩嗣『モンテーニュ入門講義』(ちくま学芸文庫)
(2) コトバンク「ユマニスト」
(3) 横山安由美・朝比奈美知子編著『はじめて学ぶフランス文学史』(ミネルヴァ書房)
(補足)
モンテーニュは後世、哲学者とか思想家などと呼ばれているが、生前は在野の廷臣・貴族(gentilhomme)、政治家として知られていた。
キリスト教の新旧両派が激しく対立する宗教戦争の時代にあって、モンテーニュは王室(カトリック)からの信頼が篤かっただけでなく、新教徒であるナヴァール王アンリ(後のフランス王アンリ4世)からも確固たる信任を受けていた。ただし、カトリックの守旧派には危険人物として睨まれていたよう。モンテーニュ自身は終生カトリック教徒だった。
モンテーニュは37歳(1570年)で隠棲して城館の塔に籠もったと言われるが、実際には完全な引退ではなく、フランスとナヴァールの双方から侍従武官に叙せられたり、1581〜1585年にはボルドー市長を務めたりもした。市長辞任後も、新旧両派間の調停役など政治活動に忙しく、本当の隠棲は晩年の3年程度(1589〜1592年)だった。
モンテーニュは44歳(1577年)のときに腎臓結石の発作に見舞われ、以後神経痛やリューマチとともに持病となる。
城館の塔の三階に書斎(リブレーリー)があり、モンテーニュはここで『随想録』を執筆した。天井の梁にはいくつもの格言が刻まれているほか、生前には壁一面に書物が並んでいたらしい。詳細は『モンテーニュ逍遙』第九章、第十章参照。
『随想録』はモンテーニュ死後の1613年に、ジョン・フロリオ John Florio, 1552–1625 によって英訳が刊行された。哲学書としてよりも文芸作品として、そしてそこにあふれる随感随想の気分が、本国フランスよりも英国ではたいへん好意的に受け入れられ(あるいは英国人の気風にも合って)、フランシス・ベーコン Francis Bacon, 1561-1626 を始めとする多くの文人にも "Essay" を書かせることになり、今日の随筆文学という一大ジャンルにまで発展したと言われる。
(参考)
関根秀雄著『新版 モンテーニュ逍遙』(国書刊行会)
関根秀雄著『モンテーニュとその時代』(白水社)
斎藤広信著『旅するモンテーニュ』(法政大学出版局)