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ラ・ファイエット夫人『クレーヴの奥方』
夫の愛情に感謝と尊敬をいだきつつも、美貌の貴公子への道ならぬ思慕に思い悩むクレーヴ夫人。ついに彼女は断ち切れぬ恋の苦悩を夫に打ち明け心の支えを求めるが……。作者(1634-93)はルイ14世時代の宮廷婦人。綿密な心理分析と透徹した人間観察が生み出したこの名篇は、フランス心理小説の古く輝かしい伝統のさきがけとなった。
『クレーヴの奥方』と『源氏物語』、翻訳が意図的に似せているのか、そもそも作品に共通点が多いから似ているのか……
公爵、公爵夫人ではなく「殿」とか「奥方」などと耳にしているうち、舞台が16世紀フランスであることを忘れてしまいそうになります。情景描写はほとんどないので、だんだん頭の中ではフランスと日本とが解け合った、おとぎ話のような遠い国の世界が浮かんできます。
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両者の類似は、単に王朝恋愛物語であることや男女の心理や葛藤をテーマとしていることだけに限らないと思います。たとえば物語における語り方。
『源氏物語』では、発話だけでなく独白なども含む会話文と、いわゆる地の文と呼ばれる叙述とのあいだに、表記上の境界がありません。語り手と思われる人物が、源氏の君、あるいは何とかの中将の心理を事細かく叙述しているのかと思いきや、いつのまにか登場人物の誰かの科白が始まっている、などということが常に起こります。必ずしも「誰々がこう言った」というようには明示されず、述語や人・物の敬語表現から、話者がシフトしたことを判断しなければいけません。
会話はさらに入れ子になることもあります。会話と叙述の間での移行でとくにとまどうのは、二つが「地続き」になっている場合ではないかと思います。つまり、ある誰かの心理描写が進行しているはずなのに、その誰かの内心に入り込み、心理描写がそのまま心境の吐露や告白に変換してしまっているような現象です。客観と主観があいまい、未分化とも言えます。源氏の君に愛されている女性の苦悩が、語り手によって連綿と語られるのですが、あまりにつらいので、女性自身の言葉がふと溜め息のように漏れるのでしょうか。
そのような現象は『クレーヴの奥方』にも感じられます。恋愛に悩む主人公の胸中が、語り手の口からあるいは主人公自身の口から述べられ、ときには両者がまるで入り乱れているところもあります。
そのせいか、会話なのにどこか説明的であったり(恋愛の修羅場でこんな理屈っぽい言葉など吐くだろうか?と思うくらい説明的だったりする)、本人自身でなければ分らないような心境を、第三者であるはずの語り手が滔々と語るのです(「神の視点」といった語もあるように、こういう状況は本書だけに限った問題ではないけれども)。
一方で、『クレーヴの奥方』や『源氏物語』で会話と叙述との区分があいまいにみえるのは、期せずしてそうなってしまったからではないような気がします。つまり、その時代特有の語り口であるとか、作者が物語世界に入り込むあまり両者があいまいになったのでもなくて、物語世界に読者をひきずりこむための、作者たち──紫式部とラ・ファイエット夫人の巧みな戦略だったのではないかとも考えます。会話/叙述の違いだとか発話者の区別といった概念など、必ずしも当時の作者たちが現代の私たちと同じような意識をもっていたとはいえないにしても(*)。
(*) フランス語には自由間接話法(discours indirect libre) という話法があり、現代の小説では常套手段になっていますが、『クレーヴの奥方』のなかでもこの用法が活用されているか、あるいはその兆しが現れているのかもしれません。
〔参考〕『クレーブの奥方』における自由間接話法
ラ・ファイエット夫人『クレーヴの奥方 他二篇』
生島遼一訳(岩波文庫)
Marie-Madeleine de La Fayette, La Princesse de Clèves, 1678
マリー=マドレーヌ・ド・ラ・ファイエット
Marie-Madeleine de La Fayette, 1634-1693
小説家。パリ生まれ。宮廷社交生活を経験、ラ・ロシュフコーらの集う文芸サロンの女主人でもあった。意に反して恋人に惹かれていく女心を描いた『クレーヴの奥方』(1678)は悲劇的緊張感をもった心理小説の傑作。生きた人間の恋愛感情を精緻に分析し、近代におけるフランス心理小説の原点となった。
(『読んで旅する世界の歴史と文化 フランス』新潮社、一部改変)