『モンテーニュ逍遙』第8章
第八章 《之ヲ倒置ノ民ト謂ウ》 ──己レヲ物ニ喪イ性ヲ俗ニ失ウ者──
(pp.237-268)
モンテーニュが自分は生来無精で無頓着で怠け者だと披露する理由。
再び、老荘との比較。「無用の用」など。
「滅私奉公」によって自分自身を見失わない生活をするということ。
モンテーニュは思想家、哲学者であるよりも前に芸術家、詩人であったことの再確認。
(本章より)
このように、当たり前ならむしろ伏せておきたいくらいの自分の欠点を、恥ずかしげもなく、悪びれもせず、堂々とはいえぬまでも、平気で淡々と述べているのは、いったい何故なのか。(...) むしろ人間一般のむなしさと共に、その一環として、自らの無能と欠陥とを公表することが、彼の公私にわたる生活全般を理解してもらうために必要であり、彼の『随想録』全体の目的もまたひっきょうそこに帰すると、確信するからであった。(p.246)
うっかり〈滅私奉公〉などというような、体のよい格言などにたぶらかされて〈己レヲ物ニ喪ウ〉ようなことにならないように、自分の信念覚悟を市民たちの前に公言し、自他に対してあらかじめ一本釘をさしている。(p.251)
《市長とモンテーニュとは常に二つにはっきりと区別されていた》(III・10・1167)(p.253)
モワ (p.254)
moi … 本書50頁 (自我、自己、私)、および事項索引(III. 事項索引)中の「自我」の項参照。
老荘のともがらにとってもモンテーニュにとっても、本当の行為というのは、ただいたずらに心身を酷使して働くことではない。それは創造であり詩なのである。詩が詩人内面の統一と均衡とを反映していなければ値打ちがないのと同様に、人の行為は、その精神の根源において判断されなければならない。(p.254)
本章結尾の「ソクラテスのデモン〔精霊〕」につながる。
いや、世間では彼の文章を雅俗混淆しているとか、構成に欠いているとか、乱雑であるとくさしているが、〈自分は無味乾燥な散文を書いているのではないこと、自分は押韻の末梢にとらわれてはいないが、詩的感興に乗じて書いているのだ〉ということを、ここに宣言しているものととってもよいのではあるまいか。学者や評論家は、こういう所を読み落としているのではあるまいか。これもまた、老荘と同じ自然観に立つモンテーニュの思想の本質が漏洩している重要な箇所であると、私は思う。(p.268)
関根秀雄著『新版 モンテーニュ逍遙』(国書刊行会)
関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)