『モンテーニュ逍遙』第10章
第十章 〈リブレーリー〉の天井に記された五十七の格言 ──『随想録』の尽きざる真の源泉──
(pp.297-337)
モンテーニュの視力のこと、そこから『随想録』の「書籍的源泉」について教えられること。
書斎〈リブレーリー〉の天井の梁に刻まれた格言こそが、もっと重視されるべき「源泉」。
(本章より)
モンテーニュがその一生を通じてどのように書物を読んだか。(...) そしてそれが『随想録』を書きあげる上にどのように利用されたか。(p.297)
殊にモンテーニュのような大思想家の場合には、ただ本人の言葉を素直にそのまま受け取るだけでは学者の沽券にかかわるかのごとく、韜晦であるとか謙遜であるとか言って、博引旁証、何かもっと厳粛な深刻な人間像を造りあげないことには満足できないらしい。(...) そういう私も、逆にモンテーニュをかなり卑小化して捉えているかもしれない。(p.297)
《わたしの眼は健全で遠見がきく(J’ai la vue kongue, saine et entière.)。だがそれは仕事をしているとじきに疲れてぼんやりとしてくる。そういう場合は、他人の奉仕にたよらないことには長く書物とのつきあいを続けることができない。小プリニウスはこういう経験をもたない人に、この種のもどかしさが読書にたずさわる者にとっていかに不快な(importum) なことであるかを、教えるであろう。》(p.300)
『随想録』「自惚れについて」(II・17・769)より。
不快な...本書では、『エッセー』の原文(ボルドー市版)でこの箇所が important となっているのは importum の誤りだろうと指摘している。ただし、国書刊行会版『モンテーニュ随想録』では「重大な」と、 important のままで訳出している。修正の漏れかもしれない。
以上の一連の事実〔モンテーニュの視力のこと〕は、モンテーニュの思想ないし著作の源泉として書物を過重視してはならないことを教える。(…) 源泉をただ書物にだけ求め、書物を源泉として百パーセント活用するということは、彼の体質が、特に彼の視力が、それを許さなかったはずである。学者が実証を云々するなら、このような事実こそ第一の実証である。(p.304)
以上五十七の格言を出所によって分類してみると、(...) (p.333)
ここに分類されなかったものとして、ミシェル・ド・ロピタルのもの一つ(格言39)、モンテーニュ自身によると思われるもの五つ(格言37、53、54、56、57)がある。
次のサイト(仏語)によると、天井に刻まれた文の研究・解析はさらに進んで、2023年の時点で57を超えるらしい。MONLOE : MONtaigne à L'Œuvre https://montaigne.univ-tours.fr/sentences-peintes-plafond/
要するに五十七の格言は、その源泉が何であれ、それがキリスト以前の古代人からである場合も含めて、その主調となっているのは、常にキリスト教的な温和なエピキュリスム〔エピクロス的快楽主義〕でなければ、人間の高慢をたしなめるやはりキリスト教的な穏健なセプティシスム〔懐疑主義〕である。(p.334)
関根秀雄著『新版 モンテーニュ逍遙』(国書刊行会)
関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)