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シムノン『メグレと無愛想な刑事』
不遇の刑事登場
メグレ警視シリーズにロニョン Charles Lognon という刑事が出てきます。日本の刑事ドラマにたとえると、メグレが「警視庁捜査一課の課長」だとすれば、ロニョンは「所轄の刑事」といったところでしょうか。ロニョンが登場する作品は次のとおりです(*)。
『メグレと無愛想な刑事』(1947)
『モンマルトルのメグレ』(1951)
『メグレ警視と生死不明の男』(1952)
『メグレと若い女の死』(1954)
『メグレ罠を張る』(1955)
『メグレと優雅な泥棒』(1961)
『メグレと幽霊』(1964)
(*) ロニョンははじめ、メグレ警視シリーズではない『ロニョン刑事とネズミ』(1937) という小説に登場しています。
ロニョンはパリ第9区のラ・ロシュフコー通りにある警察署に勤務しており、モンマルトルのコンスタンタン・ペックール広場沿いのアパルトマンで病気がちで家に籠もりきりの妻と暮らしています。同僚からは「無愛想な刑事」と呼ばれています。彼がそう呼ばれるのには理由があります。
ロニョンは事件を担当するたびに運が悪かった。彼がいよいよ逮捕状を執行しようとする時に、犯人に有力者の後ろ盾があって、放っておかなければならないと分かったり、それでなければロニョン自身が病に倒れて、同僚に事件の引き継ぎをしなければならなかったり、昇進の悪い予審判事が事件の解決を自分の出世に利用してしまったりしたのだ。
ロニョンは有能な刑事で「これほど良心的で、これほど正直な男もいない」のですが、不運続きがそうさせたのか、「疥癬にかかった犬のように、すぐ人につっかかって行くような性質」で、「歩く姿から見ても、彼は運命の重さに両肩を押しひしがれているようだった。」彼をよく知らない人にさえ、「非常に悲しそうな様子をした、背の低い人で、風邪を引いているのだとわかるまでは、その方が奥さんをなくして泣いている」のだと思われます。
彼は完全に風邪をひいていて、声はしゃがれ、絶えずポケットからハンカチを出していた。が、そのことで愚痴は言わなかった。彼は、今日までの人生に苦しみ、さらに残りの人生でも苦しむだろう人間の、あきらめきった様子をしていた。
そのほか、アメリカのギャングに殴られたり、深夜に何者かに襲われたりと、ロニョンは可哀想な役回りを強いられています。
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ルースタルによる装画入り
ロニョンが無愛想な理由
ロニョンが不運なのは、少なからず自業自得なところもあって、手柄を立てようと焦るあまり、捜査状況を知らせなかったり単独行動に走ったりして、それが裏目に出てしまうのです。「ロニョンは手柄をあげたい、自分を目立たせたいという欲望が強いため、彼の価値を証明するチャンスだと思うたびに、確信ありげに、盲滅法に突進してしまうのだ。」反面、何かミスをやらかしたときには卑屈な態度に出るのですが、それは他ならず傲慢の一種であることをメグレは見抜いており、「この人間を助けてやりたいという気力をなくさせてしまう。」何より、人からの思いやりや気遣いを素直に受け取れないのは、人間不信に陥っているからというよりは、メグレのように、たとえ犯罪者であっても相手の心持ちを悟ろうとする努力をロニョン自身が怠っているからのようにも見受けられます。他の者にはみせないほどにメグレはロニョンを気遣っているのに、ロニョンのほうは、皮肉を言われたか自分に瑕疵があると非難されたかと受け取る始末です。
世の中には、自分自身をまっすぐ省みず、不遇を何かと周囲や他人のせいにする人がいますが──そして、そういう人は往々にして無愛想だったりします──、ロニョンにもそういう一面が見えます。私はそれほど好きな登場人物ではないのですが、作者シムノンにとってはおそらく、メグレ以上に、ロニョンのような人物に関心があり、少なからず同情さえしている節があるのか、こちらもつい気になってしまいます。そういう訳だから、メグレは(あるいは、彼の背後にいるシムノンは)ロニョンのことが憎めず、彼をいつも気遣い労ってやるのでしょう。
こうしてロニョンを観察していると、無愛想な刑事という、哀愁を帯びているようで半ば喜劇的な人物を発見するのと同時に、やはりメグレという、あらゆる不条理を熟知した上で(あるいはそれがゆえに)他者に優しく度量の広い魅力的な人物が、改めて浮かび上がってくるように思います。
〔補足〕
文中の引用は『メグレと無愛想な刑事』(新庄嘉章訳)のほか、『メグレと若い女の死』『メグレ警視と生死不明の男』(長島良三訳)から。
ジョルジュ・シムノン『メグレと無愛想な刑事』新庄嘉章訳(早川書房)
Georges Simenon, Maigret et l'Inspecteur malgracieux, 1947
ジョルジュ・シムノン Georges Simenon, 1903-1989
ベルギーの小説家。リエージュ生まれ。17歳から小説を書き始め、1922年にはパリに出て、多くの大衆小説を書く。1931年からメグレ警視を主人公とする推理シリーズを発表し、広く人気を博す。鋭い心理分析で人生の裏面を描き出す手腕は『ドナデュの遺書』(1937)など、ミステリー以外の作品でも発揮され、高い文学的評価を受けている。
(『読んで旅する世界の歴史と文化 フランス』新潮社、一部改変)