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『モンテーニュ逍遙』序章
序章《それは彼であったから、それは私であったから》か ──どうして私はモンテーニュの友となったか──
(pp.15-39)
いくら「なぜ君は彼を愛したのか」と追求されたって、ただ「それは彼であったから」「それはわたしであったから」と答えるより他に、言いようがないと思う。
章題は『随想録』のなかの有名な一節から。モンテーニュが若い頃に交友したエティエンヌ・ラ・ボエシとの関係を述べたこの一文を借りながら(あるいは自身に置き換えて)、本章では著者がなぜモンテーニュを友としてきたのかを語っている。とはいえ、本章では私事をとりとめもなく書いているわけではなく、また、なぜ東洋思想との比較にもとづいて論じようとしているのかをただ説明しているだけでもなく、本書に通底する重要なテーマ、本書で読者に伝えたいことは何かということをはっきりと言及していることに注意されたい。
エティエンヌ・ラ・ボエシ Étienne de La Boétie, 1530-1563 ... 「モンテーニュが高等法院参議(評定官)であった時の同僚で、彼の上に深い感化を及ぼして早死した心の友」。著作に『奴隷根性について』(自発的隷従論)がある。
(本章から)
「パスカルは思想家でも哲学者でもない。英雄でもなければ聖者でもなく、賢人ですらない。それは芸術家、詩人、雄弁家であった」と断言しているのである。 (p.15)
ザカリ・トゥルヌール『ブレーズ・パスカルとの一生』 Zacharie Tourneur, «Une vie avec Blaise Pascal» より。「パスカル」を「モンテーニュ」と置き換えてみることもできるのではないか。
ただ一つはっきりと言えることは、モンテーニュはたんに私の研究主題であっただけではなく、いつとはなしに私の師父となり〈人生の伴侶〉となっていたということである。 (p.17)
老荘の思想は、禅宗や浄土宗におけるインド思想と一つになって、我々日本人の血脈の中に流れ込んでいる。長明にも世阿弥にも芭蕉にも親鸞にも良寛にも宣長にも、更に下っては漱石にも賢治にも、それは受け継がれている。モンテーニュの口真似をすれば、私自らも〈東洋人・日本人であるのと同じ資格において老荘のともがらである〉のだと思う。 (p.19)
それに私は学者としてではなく、たんにモンテーニュの友として、ジャン・ビエルメによるモンテーニュと荘子とのパラレルには、大いに興味をそそられたのであった。 (p.20)
モンテーニュの思想の東洋的傾向の源泉は、そんな手近な所にあろうとは思われない。もっともっと、はるかに遠い淵源にそれは由来しているように私には思われる。私にはもちろんモンテーニュにも意識されない何か遠い木魂のようなものが、相呼応しているかのように私には感じられる。 (p.27)
そんな手近な所 ... モンテーニュの時代に書かれた東洋に関する史書の類、見聞など。
自分たちの〈アタラクシア〉と彼ら仏教徒の〈ニルヴァーナ〉が、互いにきわめて近いものあることを覚ったように見える。(p.31)
アタラクシア Ataraxie … 心の平静・不動の状態。古代ギリシャの哲学者エピクロスやピュロンはアタラクシアを重視した思想を説いた。『逍遙』では「ニルヴァーナ(涅槃、魂の解放)」のほか、「虚静恬淡」「自然法爾」といった言葉と比べている。本書の事項索引参照。
さて、彼ら〔ピュロン学者〕の判断の、こういう真直で・曲らない・すべての物を順応もせず賛成もせずに受け容れる・態度は、彼らをそのアタラクシア〔恬静〕に導く。このアタラクシアというのは、平和な落ちついた生活状態のことで、彼らは我々が物事に関して持っているつもりでいる意見なり知識なりに影響されて受ける動揺に、全くわずらわされないのである(実にこうした心の動揺から、疑心、吝嗇、そねみ、飽くことのない欲望、野心、高慢、迷信、革新ずき、謀反、反抗、頑固、その他肉体的苦痛の大部分は、生れ出るのである)。
詩人的傾向の濃厚であったモンテーニュ (p.34)
今さら私は、『随想録』を『エッセー』などとカナ書きに改める気は毛頭ない。 (p.37)
フロベールがド・シャントピー嬢に教えたように、この書〔『随想録』〕は哲学や神学をそこに学ぶためにではなく、自分の一生を幸福のうちに生き抜く術をそこに体得するために、読む本なのである。私がこんどの著述の中に言いたいのもこのことのほかにはない。 (p.37)
ギュスターヴ・フロベール(フローベール) Gustave Flaubert, 1821-1880 ... 19世紀フランスの小説家。代表作に『ボヴァリー夫人』『感情教育』など。フローベールはとくに若い頃、モンテーニュを熱心に読んでいたらしい。
《知恵なき人間は悲惨》(p.38)
パスカルが『パンセ』に記した「神なき人間の惨めさ Misère de l’homme sans Dieu 」という言葉から。詳細は本書第七章、234〜236頁を参照。
いつの時代にも人間は、神をあがめ学問知識を尊んで知恵を忘れる。では、知恵とは何か。それこそモンテーニュが、詩と哲学との間に我々に教えるところである。 (p.38)
関根秀雄著『新版 モンテーニュ逍遙』(国書刊行会)
関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)
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関根秀雄著『新版 モンテーニュ逍遙』は、序章と終章を合せて全部で十三の章で構成されています。章ごとに記事を立てて、本書のなかで気に入ったところ、気になったところ、多少補足があっても良いかもと思ったところなどを抜き書きしています。ほんの少しでもみなさんの読書のお役に立てたら幸いです。