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僕と格差。選択肢と豊かさ。

暦の上ではディセンバー。
12月は振り返りシーズンですね。(勝手に自分で決めました。)

しとぎしは去年の8月から今年の3月まで経済的な事情を持つ家庭に様々な機会を支援するプロジェクト、キッカケプログラムに中高生の伴走者として携わっていました。

それについての振り返り+1年半みっちり教育業界に関わった自分と教育の関係性という観点での振り返り。だらだら書く駄文になるかもしれないけどこのnote開いたからには読んでちょうだいくださいませ!

なぜ携わっていたか。

当時カタリバオンラインというオンラインの教育系プログラムに関わっていたが、参加してくる中高生は裕福な家庭、恵まれた環境の子が多く、(オンラインで自分から足を運ぶのは情報リテラシーが高いこのため)

自分が携わりたい層と違うなと思いつつある中で、このプログラムなら自分の意思では絶対参加してこない層と携われると思って参加したのが一つです。

簡潔にいうと自分の教育に関わるモチベーションは教育機会格の差という文脈だからということです。

自分自身教育系に携わろうと思ったきっかけ自体もそこです。

自分自身幼稚園から高校まで育ったのは、天気はまじでよくない!何かあるわけではないけど生活圏内に生活するもの全て揃ってる街新潟県新潟市で育ちました。幼小中高と全て家から2km圏内でサッカーとお勉強以外したことない狭い世の中で育ちました。

小さい頃からスーパーのおもちゃ売り場でここは俺の縄張りだとばかり目で周り威嚇して、敵が寄ってくれば噛み付く。
小学生になっても気に食わないことがあればすぐ人に蹴りを入れる。
そんな野生児しとぎしは高校でも、あーこんな狭い世の中でやってられん!俺は東京さ行くだと言って高3の9月に高校脱獄(中退)して東京に行きました。

そんなこんなで外に出たしとぎしですが、最初にいった学生のビジコンちっくなので衝撃を受けました。

周りは同年代or年下。みんな片手にMacを持っている。後ろではここは日本のはずなのになぜか英語で会話してる帰国子女ガールズ。
ICT教育に興味があってと知らないワードを駆使する小学生。
そんな感じで自分がいた環境とは違うことにびっくり。

その後も色々な環境で色々な経験させていただいて成長させていただく中で、機会の格差について考えるようになりました。

思い返すと自分が脱獄する転機となったきっかけ(機会)は高校時代違うクラスの名前も覚えてない英語の先生がバングラディシュかなんかの農村のボランティアに行った話を聞かせてもらった話がでかいです。

そこの農村にいる子どもたちに将来就きたい職業は何?って聞いて回った。
そしたらみんな漁師か農家の2つの職業しか答えなかった。
なぜだかわかる?なぜならこの村には農家と漁師しか職業がなくてみんなこの二つしか職業を知らないから。

何も得意なこと、優位性がなくて将来も漠然としててやりたいこともなく不安な当時16歳?,17歳?のしとぎし少年にはめちゃくちゃ先生のこの話が脳天からケツの穴に矢が貫通するくらい刺さりました。

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「あー自分が将来やりたいこと見つからないのは知ってる職業が少ないからか。漁師と農家以外も知ってるけど、選択肢の中で見つからないだけだもんな。農村の子どもたちと同じで自分も井の中の蛙なんだな〜。はやくこの狭い世界から抜け出さなきゃ!」

やりたいの反対はやりたくないじゃなくて知らないこと。そして自分が井の中の蛙であることを知り、ここから色々なところに足を踏み入れ色々な機会から学び、知り、自分の人生が前向きになっていきました。

一方で東京出て最初に出会った都心の経済的優位層は環境から違う。色々な機会を与えられ勝手に意欲的に機会、情報などなどを掴めるようになっていく状態。

この差はでかいなぁ〜。この差を埋めるには?

自分の場合きっかけ自体は自分の意思ではなく偶然から始まったこと。つまり偶然を作ればいい。

そんなこんなで自分は偶然性の高い機会を提供する側になりたいなと思いカタリバの高校出張授業からはじまり、このキッカケプログラムに携わったっていうのが理由です。




What's 格差?

格差、格差いうてましてもプログラムで対峙するのはごくごく一般的な中学生、高校生。

マクロの構造的な部分に携わっていたわけではなく、ミクロの目の前にいる中高生と携わっていたので別にそんなに格差格差は意識することはないです。

ただ「格差」について考える出来事もそこそこありました。

一人の中学生の子。勉強はかなり苦手。だけどゲームはめちゃくちゃ得意で世界大会かなんかにも出るほど。
そして絵がめちゃくちゃうまい。よく小学生、中学生で漫画タッチの絵が上手い子は見るが、ビジネス系で使われるイラストのタッチですごい。

勉強以外の才能が豊かなので、プログラム、機会を提供する側としては、
デジタルで書ける絵のアプリだったり、ゲーム制作のプログラミングだったり色々なもの授けたくなる。

色々やってみたというよりはやってもらったがハマるものはなかった。
ただ彼はゲームをするのが好き。絵はたまに描いたりするのが良くて、別に上手くなりたいとかはない。
イラストに関する職業に就きたいわけでもなく、ゲームに関する職に就きたいわけではない。
勉強も苦手だし大学という選択肢はない。
将来は趣味でゲームができて友達と仲良くできたらいい。

これを目の前で対峙してどう感じるか。自分が思ったのは2つ。

一つ目はああまさにこれが教育格差。地域格差。経済的格差。所得格差。はこういった形で代々引き継がれていく。結果生まれながらして人生限られた選択肢を選んでいく。
だからこそ機会を与えて変えていくんだという見方。

二つ目は別にこれの何が悪いのか。本人の幸せがそうなんだからそれでいいじゃないか。別に選択肢が多い方が幸せとも限らない。所得も資本的裕福も関係ない。本人の豊かさが大事。別にこれ以上無理矢理プログラムだったり特別な機会を与える必要はない。という見方。

限りなく逆の考え方に近い2つ。

このnoteの第2クオーター後半くらいで書いた自分が高校時代に話を聞いた東南アジアの農村のこどもたちが農業と漁師しか将来の選択肢がないという話(伏線回収)

それを問題だと思うのが1つ目の考え方で、いやそもそもその子どもたちは幸せなの?別に幸せであったり豊かなのであれば問題ないじゃんっていうのが2番目の考え方だと思います。

これらを通して思うのは格差によって直接的に解消されるのは決して幸せや豊かさではない。
解消されるのは人生の選べる選択肢の数。

僕自身選択肢が増えて得をした人間ではあるが、選択肢が増えることが自体幸福にはつながらない。むしろ逆であるとすら思っている。

SNSの台頭によって色々な情報が見えて人との比較がしやすいようになった(これも潜在的な人生の選択肢)。前なんかの論文読んだ時、人との比較が幸福度下げるみたいなのもあった。

いやでもこのnoteの最初の方に
「やりたいの反対はやりたくないじゃなくて知らないこと。そして自分が井の中の蛙であることを知り、ここから色々なところに足を踏み入れ色々な機会から学び、知り、自分の人生が前向きになっていった。」
って自分で書いてるし!

ん?はい。ぶっちゃけ自分でも分かんない。選択肢が増えた方がいいのか。

選択肢が増えるほど人は幸せになれない。でもそれは負の相関関係ではあるけど因果関係ではない。なので別に選択肢が増えることは問題ではないうん。多分。選択肢が増えること自体はいいこと。わからん。

ただ一つ明確に自分として言えるのは選択肢を増やすという部分よりもどうしたら一人一人の人生が豊かになるのか?いわゆるウェルビーイングが向上されるのか、そこの本質的部分(第3因子)、人の土台になる部分に対してアプローチすることがこれからの自分のしたいことだなと思いました。

すごく自分のやりたいことの解像度が上がった一年でした。

豊かさ、ウェルビーイングに対しての向上するための本質的な部分、そしてそのアプローチ方法を
経験ベースではありますが、キッカケプログラムで半年間継続して子どもたちと対話することができたことや半年間活動していたサッカーの分析官の部分で様々サッカーの要素を学びそこから体系化して仮説を建てれそうなので、

これからは自分の経験と様々なアカデミックの部分(心理学、幸福学、行動学などなど)をしっかりと勉強して紐づいていき、3流WEBエンジニアですが一応プロダクトを作れるという武器もあるので社会で使ってもらえるようプロダクトを作っていきます。

今後ともよろしくお願いします。

何卒。

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